2014年1月25日土曜日

団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #9.団塊世代の事実をどれだけ一般世間は知っているのだろう?(上)

 メディアも団塊以外の世代の一般の人たちも「団塊世代」と一言でいうが、そのイメージはあくまで無責任なマスコミ・メディアの人間が作り上げたものだ。なおかつそのイメージを作り上げた人間達の中に実際の団塊世代など殆どいないのが実情だ。「~こうに違いない」との憶測・勝手な決めつけがその実態だと思う。

 メディアがいい加減に作り上げた団塊世代の人間に対する一般常識の一つに学生運動世代というのがある。ヘルメットを被り角材を持ってデモに参加し、大学に籠城し学生運動に身を投じ、碌に勉強しなかった世代というレッテルだ。

 しかし、よく考えてみれば誰にでも判りそうなことだ。70年安保の1970年つまり昭和45年頃の大学生総数は全国で約140万人いた。一体そのうち何人がヘルメットを被って角材を振り回していたというのか?団塊世代140万人全員が当時学生運動に身を投じ「あのころは燃えたよな?」と還暦を過ぎて酒を飲みながら語り合っているというのか?ふざけるにも程が有ろう。

 そのような学生運動・全共闘と称する幼稚に武装した過激派(逮捕される事も厭わない集団)は10万人もいなかった。いや実態はもっとはるかに少ない。
東大安田講堂の最終攻防戦・機動隊突入 Google画像

東大安田講堂の攻防戦で検挙された学生数は633名、その中で東大生は50名もいなかったのが実情だ。しかしメディア・マスコミは如何にも団塊世代は皆学生運動に加担したと言わんばかりの書き方をする。団塊世代の一般の皆にアンケートを取ってみるが良い。当時だって今だって学生運動をどうとらえているか、マスコミ・メディアのいう事とは大きく違う、あるいは真逆の結果が出るに違いない。

せっかく苦労して入った大学がロックアウトと称する学校封鎖で2年も無駄に過ごさねばならなかった一般の大学生の大多数の声を無視したメディアには相当大きな責任が有ろう。
大学闘争ヘルメット識別デザイン図  Google画像

 断っておくが、もちろん私も政治には関心が有る。しかし身の程に応じた関わり方をしてきたつもりだし、今後もそのスタンスは変えない。自分の立ち位置と自分のレベル、そうして自分個人の力量をよく知っている。己に直接関わりのある問題が生じ、政治によりそれが解決することが確かと確信できれば何らかの形で参加もしよう。

 しかし、直接自分に何の関係もない、あるいは真実が判っていないのに「良くないことが起きそうらしいので、自分も参加しなきゃいけない」と思い込んで「参加しないのは悪だ、卑怯だ」とばかりに、すぐデモや集会に参加したりするつもりはない。

 学生運動から話を離し、団塊世代の就職苦労・努力話をしてみたい。バブル崩壊以降ここ十数年は就職氷河期時代の言葉に表されるような就職難と言われて久しいが、根本的に何か勘違いしていやしないだろうか?1970年頃の大学生総数は140万人だった。これが2013年は何人になったと思う?280万人を超えている、つまり倍以上だ。大学数はどうなった?

 1970年頃は4年生の大学数382校より短期大学479校の方が多かった。当時は女子で4年制大学へ進学する人はまれであった、ほとんど女子は短大というのが一般常識だった。その4年制大学は2013年になると782校と倍増し、短大は359校に減少している。


 これは何を意味するのか、もう判りだろう?就職先の口つまり4大卒求人が倍増していないにもかかわらず大学卒業者数が倍増している実態が万年就職難の原因であるという事は火を見るより明らかだ。

 なおかつ、1970年当時は大学の優劣が非常にはっきりとしていたし、入る学生の方も自分の能力をよく理解していて己の身の丈を判っていた。社会のヒエラルキー(階層構造または上下関係)の中での自分の脳力と立ち位置が良く判っていた。

 競争・競争、試験の連続で叩かれ鍛えられて頭の良い人はレベルの高い大学へ、そうでない人はそうでない大学へ、おのずから自分の狙える将来の社会レベル就職レベルを自覚できたものだ。その上で絶対的人口の多い事を知っていた団塊世代の若者は他の多くの人間とは違う道を進み独自の道を開拓しようとして大学へは行かず海外へ出たり専門学校へ進んだ人間も多数いた。

 私の友人にもそういうツワモノが沢山居る。そういう人間こそ実はユニークで自立した開拓者的人種でそれまでにはあまり数多くはいなかった団塊世代ならではの種族だろう。

 何を隠そうこの私も現役で入った早稲田大学の教育学部の当初の授業が広い講堂でマイクを通じて一度に数百人相手の講義だったのに嫌気がさして1か月で大学を辞め美術の3年制専門学校「阿佐ヶ谷美術学院」へ入ったのだった。この辺りの話はまだまだずっと後にしたい。

 話を大学生の就職難の話に戻そう。

昔からの著名なトップクラスの大学は別として、現在は自分が進める大学の社会的な立ち位置・レベルがとんと判らないのが実情ではないだろうか?いまどきの一見積極的に自分を売り込むことに長けている明るい学生たちが口にする「~をしたいんですよ、~に就職したいんですよ、頑張ります」の前に「したいという気持ちと、出来るという事実には大きな差が有る」という事を理解させることが重要じゃないだろうか?

これは「とにかく何処でも良いから大学と名の付く所を出れば企業に就職する資格は出来たはずだ、何とかならないのは社会が悪いのだ、政治が悪いのだ」という親と高校の教育が完全に間違っている事に原因が有ると思う。

高度成長の頃の東京風景 Google画像

なおかつ1970年当時は1次産業、2次産業、3次産業の人口のバランスが取れていて、高度成長時代の日本を支えた第2次産業つまり製造業の就職口が非常に大きかった。しかし人件費削減、工業ロボットの進歩、効率の良い製造ライン開発などで製造業の就職者需要が減少したのも否めない。

同時にテレビの普及と大都会で働く男女の恋物語・トレンディドラマのヒットの影響か、辛い農業や漁業その他地方都市での地味な社会人生活に自分の将来・夢を持てず、何処でも良いから大学と名のつくところに進み都会に出て綺麗なカッコいい仕事に就きたいと願う若者が増えてしまった。これらが大学生数の過剰状態を生みだし、挙句のはて就職難を生み出す原因の一つになっている事は少なくないと思っている。

懐かしのトレンディドラマ数十本のガイドブック Google画像

代表的な「東京ラブストーリー」紫門ふみ原作アニメのTVドラマ化 フジテレビ Google画像
 
団塊世代の若者が就職に進む前には、レベルの高い大学に入るという超難関・高い壁が在った。それが今は当時に比べ遥かに大学へ進む事が楽になり高い壁が無くなった分、今度は就職の段階で高い壁が出来ただけなのだろう。辛い事・難関を先送りしただけだ。


 むしろ今なら逆に人口が減ってしまった1次産業従事者の生涯賃金の方が、カッコ良く見える第3次産業(サービス業など)より遥かに高くなっている事実を何故高校の教師や親は子供たちに話さないのだろう?不思議でしょうがない。  この項続く。