2014年1月5日日曜日

団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #4.八代で熊本弁を覚えたが、もうそれは異次元の世界だった。My private history Vol-4. The relationships of Me and Kumamoto Pref.


 太田郷小学校に在籍したのは6年生の10月から卒業までのほんの6か月弱だったが、その間の記憶は53年経った今でも恐ろしいほど鮮明に残っている。きっと子供の脳がどぎゃんこっでも吸収しよったとじゃなかろか?もちろん八代弁も友達としゃべくる事ですぐに覚えた。口喧嘩のように罵る様に言い合う事で、聴いただけでは絶対に判らない熊本弁とその言い回しを覚えた。同じ九州内でも小倉弁、博多弁、熊本弁(正確には八代弁)で随分発音や意味が違うので、大人になってから引っ越していたら、まず馴染めなかったと思う。


太田郷小の6年5組に惣川正気君というこの手の「言い合い」に関しては絶対後に引かない地元っ子がいた。「ガサ、メタ、チョイヤ、出歯白骨!」などと意味も解らず罵り合うのだ。意味は未だに解らない。こちらは小倉から来た上、元が東京だから敵う訳もない。しかし、「こうやって、こうして、掘るのだよ!」と言う意味を「ぎゃんして、ぎゃーんして、きゃー掘るとタイ!」と言われた時には体が凍りつき頭の中が真っ白になった。しかし一旦動作を交えて聞かされると漫画の擬音の様で雰囲気が非常に良く判り、直ぐに覚えてしまった。学校から家に戻って、あまりそういう方言との接触が無い母親が、私の喋る聴き慣れない熊本弁を聞いて固まってしまったのを昨日の様に思い出す。ある意味中途半端で「上から目線」の冷たい東京弁より余程リズムが有って好きだし、相手に思いや心が伝わるので、大人になってからも好んで下手くそな熊本弁を喋っている。
一方で転勤した我が父は小倉でもずーっと標準語を喋っていたため、なかなか熊本弁に馴染めずトラブルの連続だったらしい。有る時、会社で部下に道具を片付けて仕舞って置くように指示をしたら、部下が「課長!道具ば直しておきました。」と報告したのを聞いて「何?どこが壊れていたのだ?私は仕舞う様に言ったのだが?何処か壊れていたのか?」と訊き返したが、部下は「だけん、課長の言われる通り道具ば直しておきました」と繰り返すだけのトンチンカンな会話がしばらく続いたという。海軍で教官をやった父にはなかなかシンドイ転勤だったかもしれない。 

話を戻そう。結局、この惣川正気君とはすぐに仲良くなって、彼から八代弁の基本を教わったというより真似して覚えた。朝は授業の1時間も前から登校して校庭で一緒に跳び箱をやった。この跳び箱と言うのが恐ろしい遊びで、跳び箱の高さは大して高くないのだが、踏切板と跳び箱の距離を徐々に広げて行き、どれほど飛び板から跳び箱を離しても飛べるかを競うものだった。飛び板から跳び箱の上に手を着く間空中で体が真横に成る上、一つ間違えれば跳び箱の前面に脳天をぶつけてしまうオッカナイ遊びだった。しかし私とこの惣川正気君とはいつも最後まで残るこの遊びのエキスパートだった。


こんな状態で朝早くから登校していた自分としては、大人になって登校拒否という子供が世の中に出現した時にはその理由がなかなか理解できなかった。こうして私が裸足で校庭の跳び箱を、朝方早くに跳んでいた頃、ちょうど海の向こうのアメリカではあのジョン・F・ケネディが大統領に成った頃だった。


米国第35代大統領ジョン・F・ケネディ(ウィキペディアより)

別の話をしよう。校庭の西側の裏門には時々ロバが車を曳いて音楽を流しながらパンを売るロバのパン屋が来ていた。一体誰が買うのだろうか?太田郷小学校は生徒も先生も給食だったし、一度は買ってみたかったけれど、とうとうその頃は買えず仕舞いだった。

ロバのパン屋は音楽を流しながらこんな形をしていた。(Yahooフリー画像)

熊本のロバのパン屋さんの袋。(Yahooフリー画像)

この頃の八代市内には1軒だけデパートが有った。本町通りに面した八代大洋デパートだ。屋上のぐるぐる回る乗り物が一瞬だがデパートの屋上の縁の外を通るのでとても怖かった・・・が気に入っていた。今だったらそんな危険な乗り物、絶対に有り得ないだろう。
本町通りに在った八代大洋デパート(Yahooフリー画像)

話は替わって我が母は無類のデパート好き、とにかくデパートに行くのが生き甲斐のような専業主婦だった。だから八代市にこの大洋デパートが無かったら父に付いて引っ越しはしなかったのではないだろうか?一緒に来てもすぐ別れていたかもしれない。で、この母に脅されるようにして、八代駅の球磨川旅館前から産交の特急バスに乗って熊本の辛島町バスセンターまで3号線を何度一緒に行かされたか。鶴屋と熊本大洋と必ず隅から隅まで一緒に付き合わされた。今考えると一人では怖くて行けなかったのだと思う。
24年前、1990年頃の八代駅前、左端に産交特急バス停が見える(新庄撮影)

当時の熊本市内は、八代市内から見るととてつもない大都会だった。大体にしてビルが多い。十条製紙の蒸留塔から撮った父親の写真に写っている八代市は大洋デパートくらいしかビルが無い。その頃の熊本市内は基本的には熊本駅前からの市電に乗って慶徳校前あたりまでの現在の佇まいをもう少し古くした感じで瓦屋根が続いていた。それに比べ辛島町から水道町までの間の熊本大洋デパート、鶴屋デパートあたりのビル街は大きな街という感じだった。さすが九州の文化・芸術・経済・政治の中心地という風格が有った。一方で同じ大洋デパートでも八代のそれは確かにコンクリートで出来ていたにしろ、熊本の大洋に比べたら倉庫みたいなものだった。
1960年十条製紙蒸留塔から観た八代市中心部(新庄・父撮影) 
熊本市内の話はもう少し後の回にして、当時の八代市の本町通りにはアーケードなどと言う天蓋はまだなかった。個人的にはあんなもの無い方が良いと思っている。有っても集客力が増える訳でも何でもない。商店街、特にアーケードに人が集まる理由はその両端に交通手段の駅なり停留所が有るからだ。国内のアーケードで賑っている所は必ず両サイドに交通機関の駅なり乗降場がある。熊本で言えば新市街・下通りアーケードを考えれば良く判る。新市街出口は辛島町電停、バス停、下通り北詰はやはり電車通りで通町筋電停や降車ボタンを押さなくても絶対に停まるバス停が有る。上通りの電車通り側は勿論人通りが多いが、並木坂サイドに行くにつれて横道に人が消え、人通り絶対数は少なくなる。これは広告代理店時代にアーケード商店街がシャッター通り化する理由を調査分析したからよく判っている。
大阪の天神橋商店街の5丁目・6丁目を見れば更によく判る。このアーケードの南はJR大阪環状線の天満駅が有り、地下鉄谷町線と堺筋線の天神橋筋6丁目駅が北に在る。双方濡れずに駅からアーケードに抜けられる寸法だ。この商店街の熱気は道幅が狭い分、下通りや小倉の銀天街よりはるかに勢いがある。各店主も店の奥から蟻地獄の様に入って来る客を待つのではなく、店頭でたばこを吸いながら「とにかく見て行きや、手に取って触ってちょーだい!」と超積極的だ。勿論有名な心斎橋筋も吉祥寺サンロードも中野ブロードウェイもアメ横だって両サイドに必ず交通機関の駅が有る。
だから、八代の本町商店街も1丁目2丁目、3丁目で天蓋のデザインを独自のモノに変えたりする事などに神経を使わず、アーケード全体で集客アップを狙った両サイドへのバス運行プランでも考えれば良いのでは?そのうち団塊世代の我々が腰も立たずに車にも乗れなくなった時には公共機関を使って、あとは歩くしかないだろうと思う。病院廻りと買い物周りの巡回バスを本町通りの両サイド及びアーケードの要所々を横切る形で運航すればどれだけお客が来るか。今よりは余程良くなる事は目に見えている。端から端まで往復して歩いたら何かプレゼントがもらえるとなれば億劫な方でも喜んで来よう。
またまた、とんでもない方向に話が行ってしまった。
つい5年ほど前だったか、この八代市本町のアーケードが改修になるというので、少しの間天蓋が撤去された時期に行き当たった事が有り、あの中学校時代の本町通りの懐かしさが甦ったのを覚えている。意味もないのに何度も往復してみた。
数年前、天蓋工事で数か月間昔の姿に戻った本町通りの様子。

同上の逆方向

1965年に本町通りのレコード屋で購入したBeatlesの4枚目LP盤

1965年に帰省した時、ビートルズの4枚目のLP盤「Beatles For Sale」を買ったのもこの本町に在った成電社とかいうレコード屋だったと思う。この続きは又次の週末に。