2014年1月11日土曜日

団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #5.八代でなければ体験できなかった数々の学校行事・・・など。 My private history Vol-5. The relationships of Me and Kumamoto Pref.

 ■今日はまず本題に入る前に、昨年暮れにいつもの通り人吉へヤマセミの生態観察に行った際、予測もしなかった「求愛給餌行動」に遭遇し、その一連の模様を動画に収録出来たのでYouTubeにアップした。まだWEBサイトに入れ込む準備中だが、このブログをご覧の方に先行公開したい。
http://www.youtube.com/watch?v=_I1BqLxwIG0&list=HL1389355357

■ここから本文

 学校唱歌に「ふるさと」と言う歌がある。高野辰之詞、岡野貞一作曲とされているが作曲は色々な学説があるようだ。歌詞は以下の通り。カラオケは大嫌いだがこの歌だけは唄える。或る時出張先の大阪である大手のスポーツメーカーの常務さんに強引にカラオケに連れて行かれ、どうしても一曲歌わないと仕事を出さん、と言われてしょうがなくカラオケなしでこの「ふるさと」を唄った。そうしたらその得意先がいきなり涙をこぼし始めてしまい、宴会はお開きに成ってしまった事が有り、自分の上司にえらく怒られた。もう20年以上前の話だ。しかしその翌日、当の常務に呼ばれ、たとえ得意先の役員要請でも嫌いなカラオケは絶対に唄わないという頑固な姿勢と「ふるさと」を唄う意外性が気に入ったと、今までにない程の大きな仕事を任せてくれた。人間何が幸いするか判らない。

兎追ひし彼の山
小鮒釣りし彼の川
夢は今も巡りて
忘れ難き故郷
 
如何にいます父母
恙無しや友がき
雨に風につけても
思ひ出づる故郷

志を果たして
いつの日にか歸らん
山は靑き故郷
水は淸き故郷

1961年当時、東京に居ては、あるいは全国何処のエリアに居てもこの歌詞のような実体験はなかなか出来ないと思うが、幸いな事に八代二中に居た時にはこの歌詞のほぼ全てを自分の実体験として経験する事が出来た。特に小鮒釣りし~は毎日の様に放課後十条製紙社宅の北側を流れる水無川(当時は日置川もしくはヘキ川と呼んだ)で橋のたもとでやった。橋のたもとの雑貨店で釣りえさの蛆虫や赤虫を買って、少なくとも10匹程度は必ず釣り上げたと思う。ほとんどが虹色の綺麗なオイカワだが、たまに竿が折れそうな鮒が掛かった。しかし持って帰ってもしょうがないので毎回最後には川に戻していた。最近渓流釣りで自然保護の為キャッチ・アンド・リリースが当たり前とか偉そうに言っているが、こちらは50年前からそうしていた。学校でも水無川が干上がり、あちこちに水たまりが出来た時に社会学習だったか何かで全員で水たまりに入ったことが有った。大きな鯉だの鮒だのが沢山居て驚いた。勿論今より雷魚が山ほどいて、こん棒で叩いて殺し30匹以上エラに笹を通して日干しにした。川の中に入っていると足の脛に5~6匹の黒いヒルがへばりついて、皆で取りあったものだ。いつもの釣り場が大勢で荒らされてしばらく全然釣れなかったのを覚えている。
水無川の日置橋1970年

同じ場所の2006年

もう一つの「兎追いし~」の「兎狩り」はれっきとした学校行事としてまだ存在して居た。今どきそんな事をやろうものなら、父兄会だの教育委員会だのマスコミの意地悪な記者たちが黙っちゃいまい。全く良い時代に八代に居たものだ。この兎狩りの日は早朝、というより真夜中の午前3時に八代二中の校庭に集合させられた。生まれてこの方、午前3時に起きていたのはこの時ぐらいでその後もあまり記憶が無い。私は夜寝ないと翌日全く駄目なのだ。基本的に太陽が昇れば起き、西に沈んで少しするともう眠くなる。徹夜などはまずしない。だから八代と東京を寝台特急はやぶさで20時間弱掛けて往復していた頃も寝台車で爆睡して睡眠不足という事が無かった。枕が変わると寝られないという神経質な人も居るらしいが、自分にとっては夜行列車の寝台ほど寝心地の良い場所は無いと思う。
主に非電化区間はC61が牽引した。 YAHOOフリー画像

当初、はやぶさは東京ー西鹿児島間を走る日本一長い距離の特急だった。

ブルートレイン廃止前に懐かしの寝台専用特急はやぶさに東京ー熊本乗車

昭和36年の全国時刻表

昭和36年の時刻表、特急はやぶさは午後2時半頃八代に着く

午前3時、真っ暗で寒い校庭に眠い目をこすりながら集まったのは晩秋か真冬だったと思う。ドラム缶でガンガン火が焚かれていたような記憶がある。で、二中の校庭から歩いて山の麓の妙見神社を経由して、確か急な山道を上がって小さな峠を越えて山並みの裏側に出たと思う。
 裏に出ると小さな川が流れていて、今まで見た事が無いような大きな魚が動かず木の影の部分に居たのをいまだに記憶している。鯉ではなくたぶん山女か岩魚だろう。その川が実は水無川の上流部だと知ったのは大人になってからだった。
八代妙見宮

 約1時間も歩いた時、道路に一列に並ばされ、持って来たカンカンや音を出せる木切れなどを持って目の前の斜面を横一列になって直登した。そうして、山の頂上つまり峰のラインにあらかじめ前の日に先生たちが仕掛けて置いた網目掛けて登って行くのだ。結果は6羽の兎が掛かったらしい・・・というのも獲物をこの目で見ていないので。その後学校に戻って兎汁を食べたというのだが、自分は食べた記憶が無い。ウサギが可哀相で食べなかったのか、眠くて帰ったのか・・・。いずれにせよこの兎狩りにしても魚釣りにしても、「ふるさと」に歌われている事をちゃんと経験して育った人が日本中に何人いるだろう?その意味からすると自分は結構貴重な部類に入ると思う。

後はリヤカーを曳いて学校の近所の家を周り、ビンや鉄屑を集める廃品回収をやった。とにかく通学路以外は街の中心部に近いエリアしか知らない自分にとって、田んぼの広がる農村部はもの珍しいモノばかりだった。これ以外の記憶としては学校同士の集団の喧嘩に付いて行って袋叩きに遭いそうになるというおっかない記憶がある。何処だか忘れたが神社境内に野球部だか相撲部だか柔道部の先輩たちが集まって、他の中学校の連中と闘うという。新庄は脚が滅法早いから伝令だ、ついて来いと言われて最後尾から付いて行った。
しかし、二中も相手校も木刀やら竹刀やら自転車のチェーンのようなモノを持っているのがいて、大事(おおごと)に成るだろうと思い、1年生だけで逃げて帰ってきたことが有った。現場にいても足手まといになるだけだろうと勝手に皆で言い合って納得した。闘った先輩たちがその後どうなったのか全く知らない。今考えるとまるで漫画の中の世界のようだ。
ちょうどテレビで、日本の国家予算が一兆円を超えた、アメリカの原子力潜水艦ノーチラス号が北極点に浮上したなどと言うニュースが流れていた頃の話だ。テレビはNHKくらいしか視なかったが夜9時半以降は見せてもらえなかった。但し土曜日の「バラエティ・夢で逢いましょう」だけは夜遅かったが視て良いという事に成っていた。大体テレビはNHK総合 NHK教育 RKK熊本放送しかなかった時代だ。

夢で逢いましょう、司会の中島弘子さんの横向きのお辞儀が人気だった。渥美清、ジェリー藤尾 坂本九、永六輔、中村八大、九重佑未子が常連だった。初代ジャニーズがデビューした番組。

二中の1年11組の担任は榎田先生と言う名で東京の教育大を出たような話をしていたが、本当かどうかは判らない。しかし熊本弁ではなかったように思う。一見都会風でありながら(~と言っても当時のだが)バンカラな気風を持った先生だった。いつもコワモテで腰に手拭いを提げて扇子を持って威張っているのだが眼が優しくて、心の奥の方は優しいというのはクラスの誰もが見抜いていた。つい6年前に訊いた話だが授業の休み時間に「薬ば買うて来い」と級長の多武君に校門前のお店で薬を買わせていたそうだ。薬はサントリーとかニッカとかいう名の会社名だった。今なら即クビだろう。そうかと思うと放課後は学区内を自転車でぐるぐる巡回して生徒が悪さをしていないか、毎日チェックして回っていたようだ。水無川のたもとで釣りをしている時に何度出逢ったか判らない。だから実に良く担任のクラスの生徒の家の事情を知っていた。この榎田先生が話す東京の話が後の東京へ出たいというきっかけになっているのは間違いない。何の授業だったか判らないが都内の道路の話や地下鉄の話をしてくれた。
担任だった榎田定夫先生

榎田先生は英語と算数、社会などが得意だったような気がする。英語の授業で先生がかざした万年筆を指さしながらDo you know this?と言う質問に何と答える?という問題が出され思わず、「アイ ドント ノー」と答えたら、前に出て黒板に書けと言われ教壇に登らされた。しかし、発音出来ても書けなかったのでグーでゴツンとやられた。
二中の中間試験と期末試験で二度ほど何かの間違いで学年650名中一番の成績に成ってしまったことが有った。当時は100番くらいまでの成績表を廊下に張り出したからだったか、皆は誰が何番という事を知っていた。この件を街中の在る本屋で訊かれて事実です・・と答えたら、新庄は一番になった事を自慢し吹聴しているという噂に成って榎田先生の耳に入り、皆の前で立たされてその事を注意された。そうしたら、飯田哲君(今や彦一本舗の社長さん)がハイっ!と手を挙げてこう言った。「先生、なしていけんと?僕なんか絶対一番にはなれんとバイ。新庄君は勉強ばして一番に成ったんだけん自慢ばしても良かろうて思います。もし僕が一番になれたらお祝いばして皆に言いまくって自慢するけんね」これには榎田先生も反論できずに「もうよか」とそれ以上何も言わなかった。この時の飯田哲君は非常に大きく見えたのを覚えている。