2014年2月28日金曜日

タイワンハクセキレイとハクセキレイ。  White Wagtail and Japanese white wagtail.

 セキレイの種にはいろいろ亜種があって、昔はセグロセキレイ、キセキレイ以外は本州以南には居なかったとか、色々な学説があるようだ。ハクセキレイの項を引いてもタイリクハクセキレイの中に亜種が多いようだが、我々が関東で目の当たりに出来るのは概ねハクセキレイとセグロセキレイ、キセキレイぐらいなものだ。

 しかし、人吉にヤマセミを撮影に来るようになって九州には色々なセキレイが居る事に気が付いた。顔が真っ白なホオジロハクセキレイや胸の黒い前垂れの様な部分がくちばしの付け根まで来ているタイワンハクセキレイなど、天草などには更に季節によって多種多様なセキレイ系が飛来するというまさに野鳥の天国らしい。ビンズイやタヒバリなどの同系列も多いのでこの種を好む方にはたまらない地域だろう。

 今日の画像はタイワンハクセキレイと思われる画像で、後半のハクセキレイと比較して頂けると嬉しい。

一番の特徴は胸の黒い部分がくちばしの付け根まで来ている事。

こうやって正面顔で観て頂けると良く判る。


普通のハクセキレイはくちばしの下まで黒い部分が来ていない。

学術名は勿論それぞれ異なるが、パッと見は良く判らない。

しかし、ヘラサギとlクロツラヘラサギの差を比べれば納得できる差異ではある。


2014年2月27日木曜日

大雪の日のカワセミ飛翔・ダイブ特集。 These are Common kingfisher's flight scene after much snowing.

 昨日に引き続き、先日の大雪の日の数日後のカワセミの採餌ダイビングシーンをご紹介したい。江津湖や野川にはいつ行ってもほぼ遭遇可能なカワセミだが、大雪の後はしばらく顔を見せてくれなかった・・・というより、こちらも立ち入り禁止で詳しく見ていないため人影が全くない時間に現れたのかも知れない。
 
 14日夜から降り続いた雪は御存じの通り山梨県全域、秩父地方など武蔵野から山梨にかけて思った以上の雪が降ったようだ。武蔵野三鷹も未だに道路の脇には結構な雪が残っている。同じような関東平野の渡良瀬遊水地など内陸では18日の撮影行の時点ですでにほとんど雪は無く、日陰のほんの一部に薄く残っていただけだった。

 28日から暖気が入った人吉へ今年2度目のヤマセミ観察撮影行に出発するが、人吉に入る前に阿蘇・八代エリアをチェックして行こうと考えている。春なので天気の変化が激しいだろうと思う。 しかし野鳥の撮影には太陽光が鋭いピーカンより薄曇り程度の方がコントラストが強すぎなくて好都合なのだ。

 今日の画像のヤマセミもあまり普段見る事が無い、後ろからの夕日を浴びた画像が良い色が出てくれた。私はパソコンでデジタル画像を処理する時にトリミングは勿論行うが彩度強調などは絶対に行わないので、逆に綺麗な色が出るとドキドキする。今回は2枚だけ嬉しい色が出た。

 

Sunshine was coming from backside of kingfisher.
カワセミの真後ろから夕陽が当たって今までにない色が出た。

Same as above.
上と同様の別カット

Even if the sun is covered to the cloud; this vividness!
太陽が雲に隠れてもやはり水辺の宝石の鮮やかさは揺るぎ無い。

Diving scene from his back side.
真後ろからのダイビングシーン。

After sunset, snow white makes photographing possible.
日没後も雪の白さのお蔭でヤマセミのダイブを撮影できた。

This was the last dive of this day.
この日最後のカワセミダイブ。

Kingfisher goes home.
カワセミの家路への飛翔。



2014年2月26日水曜日

大雪の日の野川でアオジとカワセミ。  Appearance encountered a Japanese bunting and a common kingfisher in Nogawa on the day of the heavy snow.

 2月15日の関東エリア大雪の際、野川周辺も積雪30cmオーバーを記録した。一時は野川の縁が判り難いと云う事で危険なため立ち入り禁止になった。東京でここまで大雪になったのは1954年頃の大雪、1969年の大雪以来だと記憶している。先日もこの大雪後の野鳥たちの採餌状況を報告したが、今日は普段藪の中に居るはずのアオジが陽の当たる雪原や樹木上に現れた様子。
 雪が降って積もっても全然関係ない動きを見せるカワセミの佇まいを報告しようと思う。

February 15th we had much snow in Tokyo area. After snowing 24 hours, field were covered by much snow. The Japanese bunting which there was in a thicket usually came out to the positive place to be.

 一方、先日の渡良瀬遊水地のハイイロチュウヒ、オオジュリンの画像が渡良瀬遊水地のホームページに掲載されたのでご紹介。   http://watarase.or.jp/report/detail/25

 
これだけ西陽の強い場所にアオジが出てくるのも珍しい事だ。

この日だけでほんの100m四方のエリアで20羽以上のアオジに遭遇

同じ枝に何羽もの個体が留まるのでよほど仲間内でお気に入りなのだろう。

数少ない頭が緑色と云う野鳥で結構お気に入りだ。

つがいなのだろうか寄り添って採餌の際中

メスは結構大胆で開けた場所にどんどん出て来た。

後ろを振り返ると自転車のブレーキのような声でカワセミが呼んできた。

東京ではなかなかこういう雪のシーンを撮るチャンスが無いので記念になった。

散々ポーズした後飛び去るカワセミ。

熊本市の江津湖畔の動植物園から逃げた鹿さん、無事戻ったのでしょうか?朝の鳥見散歩中、回遊路で遭遇などしない様に案じております。







2014年2月25日火曜日

「団塊世代が観たソチ・オリンピックの報道」 

 開会式は2月7日だったが、実質上2月6日に始まった冬期ソチ・オリンピックが昨日終了した。この間時差のあるエリアでの熱戦をリアルタイムで視た方々は寝不足その他でしばらく体調がおかしいのは致し方ない事だろう。2年前のロンドンオリンピック時にはあまり感じなかった「ある事」が今回非常に気に成ってしょうがなかった。オリンピックのプログラムが進むにつれて日を追ってその「ある事」は大きく気に成って行った。

 その「ある事」とは冬季ソチ・オリンピックに関する日本におけるマスコミ・メディアの報道姿勢・報道内容そうして報道手法だった。夏のオリンピック種目に関して自分がしっかりと自信を持って批評・評価できるのは自分が今まで実際にやって経験してきた陸上競技のハイジャンプとサッカーだけだった。
 しかし、冬季オリンピックに関して言えば、アルペンスキー、アルペンスノーボード、アイスホッケー、クロスカントリースキーについては長年自分で選手として競技にも参加し、指導者資格も取り、普通の方より少しは判っているつもりだ。同時に長野オリンピックでスノーボード競技役員(プレス報道担当)として競技を運営してきた経験から、今回ソチ・オリンピックに関するメディア・マスコミの報道に対しては、少しは詳しい批評・評価を出来ると信じている。
自分のスノースポーツ全てに関する師匠 故寛仁親王殿下と志賀高原横手山春合宿で左端筆者

野沢温泉村でコルチナ・オリンピック日本代表杉山進さんと全日本スキー連盟丸山庄司さんと1994年 真ん中筆者

飯山でのビルケバイネル・スキー大会クロスカントリー10kmクラス出場 1996年

北海道サホロでのスノーボード大会運営中 1998年

アイスホッケー・ヴァンガーズ東京都1部リーグ時代1976年(公式戦得点記録あり)左ウイング

 これらの画像は決して自分のスキー、スケート歴を自慢しているのではなく、ソチ・オリンピックに関するメディア・マスコミ報道を批評・評価するに足る資格があるか否かにおいて筆者の背景を知って頂きたかったので紹介すると云う事を御理解いただきたい。

まずは基本的な話から。

 前々から考えていた事だが、テレビを中心にあらゆるメディアを使って視聴者がスポーツ競技を観戦し選手を応援し応援チームを評論し好き勝手を言うのは当たり前の事自由で、日本におけるスポーツと云うジャンルの底辺拡大、底上げに大いに貢献していると思う、これはちょうど横丁の八っつあん・熊さんが大相撲の若乃花と栃錦を応援していた昭和30年代からちっとも変っていない、スポーツを取り巻く極めて日本的な一般的な姿だと思う。

一方で、そうやってメディアを通じて日の丸を背負った日本のアスリートを応援する殆どの人々はそのスポーツをやった事が無いだろうと思う。バイアスロン、リュージュやボブスレーに至っては誰一人いないだろうし、フィギュアスケートにしても、都内のスケートリンクや富士急ハイランドのリンクで滑った事は有ってもクルッと一回転なんて転んだ時にしか経験無いと思う。
 高齢者を含めて一番経験者が多いと思われるアルペンスキーにしても旗門を通過するような競技経験は全人口比にして1万人に一人程度のモノだ。

 そのような、自分自身では出来ない、やった事が無い競技種目を応援する姿はアスリートが仲間を応援しているのとは少し違って、テレビを通じて贔屓の政治家や歌手を応援するのに似て居ると思う。特にオリンピックの場合は非常に一時的な事だし、決してこれは日本だけの事では無く世界共通の事だとも言える。同時にテレビを通じてあるいはスタジアムに行って生で贔屓チームを応援するサッカーや野球はこれのさらに発展した形態だと思う。

 しかし、しかしだ、メディアでこれを報道する立場の人間はこれと同じレベルであっては困る。メディア・マスコミの人間はそれを仕事として行う事で責任もある上、それによってお金も稼いでいる。いわばプロだろう?プロであればプロとして行うレベルが有ろうと思う。そういう意味で言えば日本のメディアの今回ソチ・オリンピック報道は酷いモノだったと言える。此処からが一番今回ソチ・オリンピックで感じた重要な部分だ。

 まず、最初に言いたい事が有る。日本のメディア・マスコミ界においてスポーツのジャンルは何故「芸能・スポーツ」として、まるで違う領域の芸能と一つのジャンルに括られているのだ?歌やお笑いやお色気番組やドラマと同じジャンルに、何故金メダルを目指すアスリートの闘うオリンピックが入っているのだろう?こんな国世界を捜しても他にどこも無い。これは日本がまだまだ発展途上でメディアの中心が新聞だった頃の紙面担当領域の悪しき習慣をそのまま引き継いでいるからなのか?それが伝統なんだからしょうがないという人も居るかもしれないが、メディアの中心がテレビに移ると同時に何故メディア・マスコミ界は変化出来得なかったのだろう?1964年のあの東京オリンピックを期に、その後の時代と共にスポーツの存在は日本人そのものの中で大きく変化したはずだ。決していつも芸能界と一緒に歩んで来た訳ではあるまい?スポーツ・アスリートと芸能人、放送関係者の結婚が多いからなのか?

 今回のソチ・オリンピック報道を観ていて、あのNHKまでもがメダル・メダルと騒ぎ立て、特定の選手に焦点を当て期待を盛り上げ事前の放送を構成していた。他の民放もそれに追従し、金メダル確実、あるいはメダルの色は何色か?実力は既にメダル圏内などと報じた、スキージャンプ女子・高梨沙羅、スキージャンプの葛西紀明、フリースタイルスキーモーグル女子・上村愛子、女子フィギュアスケート・浅田真央、男子フィギュアスケート羽生結絃、更にメダルを期待できる種目として我々がテレビその他のメディアで開会前にすり込まれたのは、女子カーリング、女子アイスホッケー、スピードスケート男子だったが結果はどうだ?予測通りだったのはスキージャンプ男子のレジェンド葛西と羽生だけではないか?

 海外でもメディアが過剰な期待を盛り上げる為、責任感の強い真面目な性格の選手ほど目に見えないプレッシャ―で実力の半分も出せない状況に陥る事が多いとの報道がある。これには国民性もあろうが、今回浅田真央の一時的失速に関してドイツの同種目2大会金メダリストカタリナ・ビットが浅田はメディアの過剰報道が潰したと明言している事からも本当の所だろう。

 あるいは、経験豊富な選手でなくても思う通りの結果が出なかった時のメディアへの返答があまりに優等生的で上村愛子、高梨沙羅など聴いていて胸が痛くなったケースも多かった、何であそこまで言わせなければいけない?自分が今思う通りの成果を出せずに辛く落ち込んでいる時に今後の事など言えるか?もっと選手はメディアになど気を使わずノビノビと振る舞えるようにして良いのではないのか?メディア・レポーターの猛省を促したい。


 一方で、一般的には全然選手の名前すら知らなかったのに堂々とメダルを獲得した、男子スノーボードハーフパイプの平野歩夢、平岡卓、スキーノルディック複合の渡部暁斗、スノーボード女子・パラレル大回転の竹内智香、スキーフリースタイルハーフパイプの小野塚彩那。これらのメダリストたちを候補として挙げたメディアが幾つあった?日本のメディアでこれらの結果を反省し詫びた所があったろうか?この辺りがメディア・マスコミが厚顔無恥と言われる所以だ。

 事前の取材はいったい誰がどのように行ったのだろう?その種目に精通した担当者がきちんと行ったのだろうか?いや、していまい。していたらこれほどひどい結果にはならなかったはず。基本的に普段の世界選手権には各種目各国出場制限枠が無いため本当に実力のあるトップクラスのアスリートが集まる。
 各国代表であれば出られるオリンピックには出られても世界選手権にはジャマイカのボブスレーはレベルに達していないため参加できないのだ。  
だからそこでのメダルは実はオリンピック以上の激戦を経て獲得したメダルなのだから、連戦連勝だった高梨沙羅などは、本来オリンピックで色は別にしてメダルを獲れて当たり前なのだ。しかしあまりに東洋人が強いとヨーロッパ人種はあの手この手でヨーロッパ人種が勝てるようにルール改正、本番時にあの手この手でメダル獲得妨害に来る。特にスキージャンプにおいてのこの事は日本人誰もが良く知っている事だろう。断っておくが今回の高梨選手の場合がそうだと言っている訳ではない。

もう一つ、オリンピック開催中のテレビの報道姿勢が気になってしょうがなかった。元気だし決して個人的には嫌いではない激情型の松岡修造のレポート、コメント。彼のレポートは英語も堪能だし、他の局付き女子アナウンサーのまるで芸能レポートの様なアスリートへのアプローチより総合レポーターとしてははるかに納得のいく内容ではあったが、彼は元来テニスプレーヤーだろ?テニスのウインブルドン大会に元スキー選手がコメンテータとして出てきたり、増田明美が出てきて何も言わないでいられるか?松岡修造はスキーやスノボはどの程度出来るのだ?今までオリンピックに出た元アスリートは今一体どうしているのだろう。もっと的確な人間はいないのか?スノボのハーフパイプの解説者を尾形修氏がやっていたが彼は長野オリンピックで一緒に運営方を行ったいわば仲間だが私と一緒でスノーボードはアルペンの選手でハーフパイプなど一度も入った事もない人間だ、何故今回日本がオリンピックに派遣した種目の元選手を集めてコメンテーターにしないのだろう? 
今回の期間中何処かで観たがあのトリノで唯一の金メダリスト荒川静香や先輩の村主章枝が浅田真央の滑りを解説したコメントやオリンピックフィギュア2連覇のドイツのカタリーナ・ビットがドイツのメディアで行った浅田真央へ解説・評価は、相当高度で判りやすく誰も異論を唱えられない確たるものだった。それはそのコメンテーター自身がオリンピックを経験し、同じ立場の浅田真央を自分に置き換えて評論できるからに他ならない。
逆に民放の朝のワイド番組で前日のオリンピックの様子を報道し、スポーツには何の関係もない訳の分からないコメンテーターがワイワイガヤガヤ好き勝手を言い合う姿は一番腹が立った。そのスタジオと現場ソチの会場を結んで選手の現状あるいは競技直後の姿を報道しているが、何故競技そのものの勝因や敗因などを訊かずに涙の理由や応援してくれた人への感謝コメントばかり求めるのだろう。

スポーツを実際にやって来た人間としては、もっと選手寄り、アスリート寄りの質問としてコースコンディションやワックスが合った・合わなかった、もっと長い板を使用すべきだった、スケートのブレードの溝が深すぎた・・などのスポーツ報道としての専門性と深さが欲しかった。CNNでのアメリカ選手に対するインタビューの専門性を視る限り情けないが日本のスポーツ報道は半世紀以上も遅れていると思う。  
NHKだけでも良い、たとえば今回のソチ・オリンピックの場合など日本人選手出場種目すべての経験者をヒナ段に並べ、その種目別担当者にして、日本代表を事前に調査・インタビューさせて知識武装し、本番時にその選手のセコンド、あるいはマネージャーくらいのつもりでコメントを出させたら如何だったろう?今まで日本でこのような事を行っているのは女子マラソン解説の増田明美を筆頭に先出の荒川静香・村主章枝位なものだ。そういうスポーツに特化した報道姿勢が日本のメディア・マスコミに無いのは非常に情けないと思った。

何故か日本のメディアはスポーツのメダルに隠れた美談や涙物語ばかり一生懸命取材させるようだ。そういのが無ければでっち上げかねない程の異様さだ。視聴者は本当にそういうものばかりを期待しているのだろうか?オリンピックほどの大会に成ればすべてのアスリートに苦労話や涙話は存在するに決まっている。それはそれでいい話だと思うしオリンピックだからこその事なので、あればあるだけ知りたいとは思う。しかし努力話は自分がその身になれば当たり前の事だろう、黙っていてメダルが天から降って来る訳がない。やはり勝負の世界の国際大会なのだから本質をまず前面に出してほしいと思うのだが間違っているだろうか?

一方で、日本のメディア・マスコミはオリンピックとなると何故これ程特別扱いして浮足立つのだろう?取材陣の方が出場アスリート以上に平常心を失っているとしか思えない。今回一番小気味良かったたのはスノーボードハーフパイプで銀メダルを獲った平野歩夢が表彰式で一段高い所からつぶやくように言ったコメント「なんか、オリンピックっぽくて良いっすねぇー。」だった。普段米国のスポーツ専門チャネルESPNなどで報道されているプロの世界大会X-Gameなど本当のレベルの高い大会で常時上位に名を連ねている余裕から出る「オリンピックだけが大会じゃないんだよ」の平然とした態度。これが一番スカッとした。

一方でJOCの竹田会長が指令を出したかどうか知らないが、手に取ったメダルを噛む仕草、あの品の無い仕草もすべてメディアが要求するモノだ。やめる様に指示したのであれば竹田さん全く正しい。随分前のオリンピックで外国選手がメディアの要請でしたポーズを日本の女子マラソン高橋尚子がメディアの要請で真似して見せたのが妙な「お約束」に成ってしまっていたが、今回も懲りないメディアは要求しただろうが日本選手達はだれもやらなかった。やっと正気に戻った訳だ。
シドニーでメダルを噛もうとする高橋尚子 Yahooフリー画像

 メディア・マスコミ批判ばかりではなく、今後日本がオリンピックで良い成績を収めて行くにはどうしたら良いかをここで述べたいと思う。2つの大きなポイントがある。まずはお金。各国のオリンピック出場選手強化費を大まかに比べてみるとドイツ274億円、米国165億円、中国120億円、英国120億円、韓国106億円、そうして我が日本27億円。それぞれの国の人口比率などもあるが、基本的な選手強化費のベースの差がこれほどある事を皆が知っているだろうか?メディアは報道しているだろうか?日本は強化費を増やせばもっと上位に行けると云う事なのだ。2020年のオリンピック関係者面している森喜朗元首相は選手が大事な所で転ぶなど誤解を招くような事を言っていないで一円でも多くの選手強化費を関係者に働きかけて稼ぐべきではないのか?

次に選手だ、世界大会を転戦し続けて、英語のインタビューに慣れている高梨沙羅選手ですら今回は国旗を上げられなかった。しかし、スノボのハーフパイプの2人はほぼ米国で生活しているから外人だらけの大会に慣れきって平常心で臨めた。要は日本人アスリート達は昔から外人たちが沢山居る場所に場馴れしていない分、英語が標準語の空気に慣れていない分臆して実力が出ない。これはどの種目にも共通だ。海外で活躍する日本人選手を見るが良い。今回で言えばスノボの2人のほか女子スノボのパラレルで銀を獲った竹内智香、テニスの錦織 圭、サッカー・セリエAの長友、シャルケの内田ほかヨーロッパ・プロリーグのサッカー選手たち、米大リーグの日本人野球選手たち。その国の生活に溶け込み日本語の無い世界で日常を過ごし、インタビューに英語で答え、お米のおにぎりなど無くても充分国際大会で闘える環境を自分で造ったアスリートのみ世界のトップに行けるのだ。これらの事を考える時、アスリート自身にも世界を目指す基本中の基本が何であるかもっと自覚して良いと思う。


これには皆も知っている一番良い実例が目の前に在るではないか?大相撲の白鵬、日馬富士、鶴竜などのモンゴル勢を観るが良い。インタビューにも日本語をしゃべりチャンコを喰ってモンゴルからモンゴル食など持ってきて食べないで頑張ってトップに登っている。そう云う環境下に自分を置かない限りいつまでも世界は遠い存在のままだろう。

2014年2月24日月曜日

渡良瀬遊水地でオオジュリンに迫る。 I met Reed bunting at Watarase wet land.

 渡良瀬遊水地でハイイロチュウヒに出遭えた翌日、必ず居るはずと思っていたオオジュリンが目の前の葦原に来てくれたので500mmF4+×2.0EXTENDERで狙ってみた。
 相変わらずチュウヒ系のお出ましを待っていたが、パチパチと何かがはじける音がするので目をこらしたら、オオジュリンだった。こちらは夕陽を背負っているので動かなければどんどん近くに寄って来るので弩アップで撮影できた。
 私は「ノートリ」などという撮影成果を誇ったりすることが大嫌いなので、そのための努力などした事は無いが、あまり近くに寄ってくるのも困ったものだ。葦原なので葦の茎や葉が必ず被ってしまいそうで気が気ではなかった。

 しかし、丹念に幹の皮をはいで白い粉を吹いた様な部分にいる虫を採餌していた。「江津湖の野鳥」にも掲載したオオジュリンは半分夏羽の面影が残っていてまだらの顔をしていたが、今回の渡良瀬遊水地では完全な冬羽の状態だった。パッと見、カシラダカと似ている気がした。

一見これで冠羽が立っていたりしたらカシラダカだと思ってしまうかも。

多分真っ黒なシルエットでこちらを認識しているのだろう。

木の皮を丁寧に剥いで

ペッと捨てる。

虫が隠れている所は経験値で判るのだろうか?

背中を視る事はあまりないオオジュリンだが、今回はうまいこと視る事が出来た。


2014年2月23日日曜日

団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #18.中島小学校から福岡学芸大学附属小倉小学校へ。 I changed school at the age of 9 years old in the third elementary school.

 小倉市の市立中島小学校の2年生も3学期に入って2月頃だったか、我が父がいきなり「メモリアルクロスへ連れて行ってやろう」と珍しい事を言ってきた。

 メモリアルクロスって一体何だ?

 「俊郎!夢の世界へ連れて行ってやろう。」と言われ、歓んでよそ行きの服に着替えたのもつかの間、「何やってんだ?枕と上掛けをもって縁側へ来い、昼寝だ!昼寝!夢の国だよ!」と平気で我が子を担いで喜ぶ父なので用心しなければいけない。

 厳しいか冗談を言っているか、両極端の二面性を持つ我が父が珍しくごく普通の父親のような事を言うので、何か裏があるのではないかと一瞬次に起こることをいくつか予測した。

 しかし嘘でもなさそうなので素直に従って外出した。魚町電停まで西鉄北方線の市電で出て、其処から大谷口(今は大谷池・行)行きの西鉄バスに乗った。勿論自分にとっては足立山の方面はまだ行った事が無かったし初めて乗るルートのバスだった。
十条製紙の社宅、ちょうど中央辺りに我が家の屋根が見える。現在はこのど真ん中を大きな道路が走っているので元の社宅は跡形もない。

 バスガールの誘導でバスが貨物専用添田線の線路を越えて左に曲がり、土埃を上げ喘ぎながら坂道を上った頃、右手に木造の広いスペースを持つ学校が見えてきた。

 バスの中で右側の席に座りなおした父がいきなり「俊郎!お前は今度の4月からこの学校に行くんだよ。」と言った。これを聴いてとっさに思った「嘘だろ?また転校かよ?」

 まあ1度東京から小倉へ転校は経験しているので2度目はそれほど苦ではないにしろ、子供心にこれではまるでサーカスの子供みたいじゃないかと思った。何かの映画でサーカスの団員を親に持つ兄弟が興行先を転々とするたび学校を替わって行く・・というのを観たのでそう思ったのだろう。
転校したての頃の附属小倉小学校、大正時代建設で木造平屋の校舎。教室には照明の電灯が無かった。意外に狭いその校庭で遊ぶ小学生達を見ながら、バスは大谷口終点へ向かうのだった。

 そこから赤土の山道をテクテク歩いて白い大きな十字架が建っている所に着いた。そこから見る小倉の市内は重工業都市らしく工場から出る石炭火力の薄煙に靄っていて、いつもは街中からはっきりと見える八幡の皿倉山は小倉市街越しにボーっと霞んでいた。そのほか小倉競馬場や井筒屋デパートなどがせいぜい大きな建物で、十条製紙や東洋陶器の工場は父親に場所を教わらなければ判らなかった。しかし北九州五市の中心小倉市の全容は山道からの視界を遮るものは何もないので大体すべて見渡せた。
左の白い建物が井筒屋デパート、右手の三角屋根と煙突は小倉市立病院。井筒屋からは夕方5時に成るとドボルザークの交響曲「新世界より」の第2楽章の一部「家路」が流れた。これは小倉に住んでいた昭和30年から熊本の八代市に移る迄5年間毎日聴いて過ごした。

  其れから数日を経た寒い冬の夕方、暗くなって母に連れられてその新しい学校の教員宿舎に挨拶に行ったのを覚えている。

 なんでも私が小倉に引っ越した際に東京で最初に通った東京学芸大学附属追分小学校の飛松正校長から福岡学芸大学附属小倉小学校の片田嗣信校長と総務教頭格の梅谷巌先生に話が通っていて、小倉の附属での学校事情から3年生の編入試験の際に入れ込むという事前の了解が出来ていたというのが実情だったらしい。

 知らぬは当の本人ばかりなりだ。編入試験を受けるのになんで暗い夜に裏口入学(当時は勿論そういう事は知らないが)の様な挨拶に行くのか?休日の昼間行かないのか子供心に後ろめたくも不審に思ったのも確かだった。

 後で理由を聞いたら、小倉の附属小学校はもの凄く教育熱心な文部省実験校(これは今でも変わらないらしい)で、1年生を採っても1年間で周りの皆に学力や性格上の問題で付いて行けない場合は親を説得して別の学校に出してしまうという超エリート教育をしていたようなのだ。

 これは自分が入る前の1年2年の集合写真には写っている子が3年生の時点で1~2名が消えている事でも証明されている、決して死んだわけではあるまい。
 そういう異常に教育熱心な学校へ子供を入れたい団塊世代の親は、あの手この手で附属小倉小学校へアプローチを掛けていたという。そんな中突然理由もなしに東京からの転校生を紹介状一つでひょいと入れる訳にはいかなかったのだろう、想像に難くない。
昭和初期の附属小正門

  編入試験自体はどのような内容でどのように行われたのか、筆記試験の記憶が全くない。ただ面接と云うか口頭試問は覚えている。片田校長と梅谷教頭がいたのも覚えている、試験室の床は木の床板でだるまストーブがありやかんがチンチン湯気を出しながらお湯を沸かしていた、たぶん校長室か応接室だったのだろう。

 名前の確認の後、最初の「得意な科目は何ですか?」というに質問に「算数です」と答えた。次に「不得手な科目は何ですか?」と訊かれたが不得手という言葉を知らなかったので再び「算数です!」と答えた。後で聞いたら隣にいた母親はこの時卒倒しそうになったそうだ。

 しかし運命は判らない、片田校長は「なかなか奥深い答えですね?」と頷きながら勝手に納得していた。いくつか質問が在って最後の質問は「大きくなったら何に成りたいですか?」との質問だった。で、答えた「学校の先生です!」案の定、二人の先生たちはニコニコしていた、なにせ教員養成の学芸大学の附属だもの。

試験の部屋に入るまではそういう質問があったら「学者に・・・」と言おうと思っていたのに、土壇場でも平気で気が変わる性格の原点はこの時にあったのかもしれない。これで口頭試問、面接は終わったが、最後の質問への答えは我ながら今でも賢い子供だったと思う。
附属小の制服、妹と。

 4月になって附属小学校の制服に袖を通し、西鉄北方線と大谷口行のバスを乗り継いで附属小学校前で下車し通うのに慣れるのにさして時間は掛からなかった。今考えると2歳下のわが妹も同時に附属小学校に1年生として入学しているのだが、こちらは最初から試験を受けたことになる。
だが学校に通うときは何故か一緒ではなかった、普通なら一緒に通うだろうに・・・今考えるととても不自然だがこの辺りは記憶が定かではない。

この3年生からの編入組は男子4名、女子1名が居た。それぞれ門司、門司港、赤坂延命寺、小倉、八幡からの通学で赤坂延命寺の者以外は西鉄の乗り物通学だった。この附属小学校の在る富野エリアには全国でも珍しい円系校舎の富野中学が有った。

 当時はドイツのバウハウスがデザイン・建築・工業デザインで注目されていて、日本でもバウハウスのコーンハウスという円形の建物を参考にした学校校舎があちこちに斬新だと云う事で建ったようだ。
 坂本鹿名夫という建築家がこの分野では草分けで、後に私自身が横浜国立大学に進んだ時、近所だった保土ヶ谷の明倫女子高の円型校舎もこの坂本鹿名夫氏の設計だったようだ。
円型校舎の富野中学校

 3年振りに制服の通学になったのだが、やはり市立小学校とは違って皆お坊ちゃんお嬢ちゃんの粒揃いと云った頭のよさそうなクラスメートばかりで、親の職業も医者が多く、他も会社の重役、NHK勤務、西鉄勤務、新聞社、大店の商店経営、教育関係など小倉での知識階層だった。我が家の様な普通の一般サラリーマン家庭は数少なかった。

 雨が降ると爺やが番傘でお出迎え・・等と言う無法松の親類の様な子もいた。この附属小学校の2年年上の同窓生には歌手の中尾ミエ(本名:中尾美禰子・本屋の娘)、4歳年下の弟の同級生には大人になって問題ばかり起こす清水健太郎(園田巌)などが居る。

 しかし、そう思ったのは最初だけで、入ってみると皆普通の子供たちだった。が、エリート意識というモノは子供にもあるのだと知らされたのが休み時間や放課後遊ぶ時のソフトボールのチーム編成だった。

自分としては割にスポーツ感覚は在った方で、この附属に転校した後も50m走ではクラスで早い方から2番目だった。
野球(実際はソフトボール)にしても割に遠くへ飛ばすタイプで、毎朝始業前にやっていたノックでも自分が打つ番に成ると皆後ろへ下がったものだ。
しかし転校生としてはソフトボールでは2軍と呼ばれるチームに入るしかなかった。

これは完全に力関係で1年の時から附属に居るもの優先、体のデカい者、自己主張の強い者,口の立つ者中心でまず1軍メンバーを作ってしまい、決して球技がうまいから1軍と云う訳ではなかった。
勿論勝ちたいが為戦略的に元々ソフトボールがうまいピッチャー役や小さな時から近所でソフトボールをやっていた子などを味方に引き入れ、残り者で2軍を形成させていたので、毎回1軍が勝利するという状況が発生した。残り物の中にはキャッチャーミットにボールが入ってからバットを振るようなスポーツ音痴も居たほど。

転校生はどんなにソフトボールの強打者でも、上手くても絶対的にこの1軍には入れてもらえなかった。スポーツ万能でクラスで一番足の速い者なども2軍だった。それに上手くなると1軍に上がれるというシステムも無く、6年間ずっと続く身分の様なものだったのにはいつも理不尽さを感じていた。
 
この辺りを采配していた者の一人が数年前の東京でのクラス会で、無意識のうちに「転校生なんかにこんな立派なクラス会を仕切られてしまい・・・・」という発言をして、転校生に対する根本的な差別意識が在った事、及び今でも意識の中に存在するという事を暴露してしまった。
これはあくまで個人的な人間性の問題だとは思うが、仲の良い同じ転校生同士「やっぱりな・・。」と再確認し合ったものだった。

先にも述べたがこの附属小学校は1年生の時からクラス替えをしないで6年間過ごさせる実験学校だったそうで、1学年2組のAB両クラスはお互いの存在を無視し、交流をさせない教育方法をとっていた。
したがって教室も中庭を挟んで別棟方式を採っており、後にほぼ自動的に進学する附属中学校でシャッフルされるまでは隣クラスの同期生の名前すら知らなかった。

さすがに6年生の時には中学に上がった時の事を考えて物理的には隣同士の教室になったが、その理由は単純に学校のレイアウトの問題の方が大きかったのかも知れない。
附属小の校舎はこのような形で冬に成るとストーブの煙突が各部屋から突き出した。

しかし6年生の10月に4度目の学校八代市立太田郷小学校へ転校した私自身はとうとう最後まで隣のクラスの名前と顔は一切知らずに今日に至っている。大きくなってこれらを事情通に教わったのだが、教育実験のモルモットにされたと云う事はあまり良い気分ではない。少なくとも実験の目的とその成果報告をモルモットであった我々にすべきだろうと思う。

この後はこの附属小学校に通いながら小倉と云う重工業都市での3年間の暮らしぶり、体験などを続けて行こうと思う。


2014年2月22日土曜日

団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #17.中島小学校時代のあれやこれや。 Various cases of Nakajima elementary school days of Kokura in 1955.

 1学期だけ通った東京での小学校から転校して1年が経った頃、小学校の広い校庭の正面の家が火事で全焼した。生まれて初めて目の当たりにする本物の火事だった。

 昼休みだったか授業中だったか覚えていないが、全校生徒が校庭に出たと思う。冬で寒かった。燃えていた家は当時の木造なのでアルミサッシなどではなく、隙間だらけの木枠のガラス窓だったが、二度三度膨らんで外側に「ボン!」とはじけ飛んで真っ赤な炎が屋根より上まで上がった瞬間がまだ脳裏に焼き付いている。

 消防車は校庭から見えるエリアでは2台しか来ていなかったが、実際はもっとたくさん居たのだろう。先日我が家から300m離れた留守中の民家で警報が鳴ったとかで赤い消防車が8台も来ていたが、昭和30年代はまだまだ消防車の数は少なく手押しポンプと町の消防団が中心で活躍していたのだろうと思う。

 銀色の防火服の消防署員と袢纏の消防団が入り混じって沢山走り回っていた。先生が必死に「前に行ってはいけません、高橋君!シンジョー君!駄目だってばー!」の声は聞こえたが、どんどん後ろから押されて結局校庭の縁の金網の傍まで押して出た。結局ほぼ全員が校庭の南端の金網まで群がってしまい、寒い中燃え盛る炎の熱気を直接肌で感じながら社会見学をしたのだった。
少子化のあおりで統廃合が多い中、この中島小学校はいつまでも残るのではないだろうか?

校庭からは毎日足立山が見えていた。当時も今も校庭は綺麗な土だ。

東京都心部の小学校などに比べると校庭の広さは驚異的だった。

 この校庭の燃えた家の先に小倉カトリック幼稚園が在って、二歳下の我が妹・眞理子が通っていた。小学校が終わって最初の頃はこの妹を迎えに行って一緒に家に連れて帰っていた。下手をすると幼稚園の方が遅くまでやっていて少し幼稚園の入り口で待つ事に成った。

 しばらくすると顔なじみになった幼稚園の小使いさんが中でお待ち・・と言ってくれて中で待つようになった。いつも終りに近くなると神父さんが喋るお祈りらしき意味の分からない外国語がゴニョゴニョ聴こえて最後に「アーメン」と言って終わるのだったが、その「シュワァキーマセリ・・・・」という見知らぬ言葉が「主は来ませり・・」という日本語だと知ったのはずいぶん後に成ってからだった。
 
現在の小倉カトリック幼稚園


 この小倉カトリック幼稚園の南に在る大通りを越えた所に黄金市場が在る。当時はトタン屋根の戦争直後の仮住まいの様な家がびっしりと並んでいたが、最近は少し綺麗になったようだ。でも天井は低く旦過市場のような魚町銀天街から冷やかしに流れてくるような客層が多いのではなく、もっと更に庶民的ながら新鮮な食材が豊富な場所だった。最近も小倉に行くと必ず此処へ来て当時の雰囲気や匂いを嗅いで帰る事にしている。

 当時、クラスでこの附近に住んでいる小生意気な秀才が居て、先生に告げ口をして一人だけ良い子になった事があった。先生のお仕置きの後、怒り狂った我々はまだ夕暮れのかき入れ時前の黄金市場でそいつを追いかけた事が有った。

 仲間が石を投げられたので、皆小石を手にして逆襲しようとしたらその秀才、時計屋のガラスのショーウインドウの前に立って「投げられるものなら投げてみろ!」と言うではないか。
 小賢しいというかずる賢いというか、子供心に妙に感心したのを覚えている。そいつはきっと今頃はひとかどの詐欺師に成っているに違いない。

 この黄金市場から西へ向かうと八幡に抜ける広い道路に斜めに交わり、そのすぐ先に到津遊園地が在った。動物園もあったが今は無いようだ。

 父に此処へ連れられてきた時「動物園に居るか居ないか?」といきなり質問され「何が?」と訊くと「だから動物園に居るか居ないか?と訊いている」を繰り返すだけだった。

 狐につままれたような状態で居ると「動物園にイルカ居ないか?」と訊いているという冗談だった。こう言う親に育てられた自分だがちゃんと普通に育ったのだろうか?もう遅いが今でも時々心配になる。

 この到津遊園地の裏側に金比羅山といわれる山肌をぐるぐる巻きの道路で頂上に登れる甘食パンの様な丘がある。今グーグルの地図などで視ると樹木で覆われてしまい面影はないようだが、当時は高い木など殆ど生えていなくて、頂上へ登るにつれて徐々に北九州五市の半分が良く展望できた。当時はまだ低灌木と草原に成っていたのでぐるぐる回りの道ではなく直登も出来た。多分色々な野鳥が来るに違いない、次回は500mmレンズ装着で季節を選んで登ってみようと思う。

 ここの頂上から真東の方向に足立山がドーンと見える。その間に当時の小倉市街、まだ小倉城も市役所の黒くて四角い建物も無い、瓦屋根と松の木が林立する小倉城址や自衛隊駐屯地、十条製紙に東洋陶器の工場が見えたのを覚えているが、すべて今想い出してもすべてセピア色だ。
昭和34年頃、金毘羅山から見たと思われる写真。

 この頃の想い出の曲と云えば、若山彰の唄う映画の主題歌の「喜びも悲しみも幾年月」、三橋美智也の「古城」「夕焼けトンビ」くらいだろうか。暮れのNHK紅白歌合戦が全盛時代に入っていて赤坂小梅、神楽坂はん子など芸者歌手がマジに出ていた。名前だけは覚えているが顔かたちや歌は全く覚えがない。

 若山彰の唄う「♪オーイラ岬のぉ~」を聴いて地図帳を取り出して日本中の岬にオーイラ岬と云うのが在るのかと探した事を覚えている。こう言った勘違いはしょっちゅうだった。

 春日八郎の唄う「お富さん」に至っては大人になるまで「粋な黒兵衛、神輿の松に~死んだ筈だよお富さん~♪」だと思っていた。つまり粋な黒兵衛という遊び人と、神輿担ぎの横丁の松っあんが争っていたお富さんという女性が生き返った歌だと思っていた。我が事ながら子供の想像力はもの凄い。
神楽坂はん子のレコード 既に45rpmのシングル盤が出ていたのは驚いた。

ふくよかな方だったらしい。芸者さんが紅白出場!
 
 この昭和29~30年頃はまだ一般の市民生活における秩序は余り整っていなかった。東京でも物乞いやかっぱらい、子供のスリが横行していた時代、九州の小倉ではもっと秩序は乱れていたろうと想像する。石炭・炭鉱関係の人の往来が激しかった頃だし荒っぽい事件は日常茶飯事だったようだ。

 ある時、父親に連れられて銀天街~旦過市場へ行ったとき、騒がしい一団が目の前を通った。雨戸の板に乗せられて半纏を着た男の人が、腹に包丁が刺さったまますぐ傍の市立病院へ運ばれて行った。我が父親はこの息子を肩車し「トシロー、よく見ておくんだぞ、あの包丁は抜いちゃいけないんだ、抜いたら血が吹き出て死んじゃうんだぞ・・。」

 運ばれていく人のお腹に刺さったままの包丁が揺れ続けている夢を、その後大人になっても幾度見た事か。

 戦争でそういう場面を幾度も経験したのだろう。その日の父はいつもと違っていたのをよく覚えている。

 十条製紙の社宅にも夜に成ると塀を乗り越えて人の家の庭のイチジクなどを獲りに来る輩が結構いた。或る晩我が父はこのイチジク泥棒を撃退しようというので庭に懐中電灯を一斉に照らせるよう会社から大きなのを3個ばかり借りてきた。
で、熟れてちょうど食べ頃のイチジクの下あたりに石灰の粉を撒いた。これは逃げて行くイチジク泥棒の靴底に付着すれば後で証明に成るとの考えだったという。

父と二人でドキドキしながら待つこと30分、ガタガタと音を立てながら塀をよじ登る黒い影。勿論部屋は真っ暗にしているので向こうからこちらは見えない。そうして庭に降りたと思った瞬間大きくイチジクの木の枝が揺れた。狙いをつけていた熟れたイチジクをもぎ取ったんだろう。その瞬間だった「コラァ!」ともの凄い声で我が父が吠えた。生まれて初めて聴いた父のデカい声だった。

声と同時に黒い影があっという間に塀を上り外の道路に消えてタッタッタッと云う走り去る足音が遠きに消えていった。大きな影だと思ったが父に言わせると「子供だな、中学生くらい」と云う事だった。

生きていればそのイチジク泥棒君は今頃70歳くらいだろうか?けっこう小倉で果物屋のオヤジに成っていたりして・・・な訳ないか。

2014年2月21日金曜日

渡良瀬遊水地でハイイロチュウヒ初遭遇で撮影。 I met with Northern harrier in Watarase wet land for the first time.

関東地方2週連続の大雪の後、北風が強い日が続いたがやっとの思いで渡良瀬遊水地に出かける事が出来た。武蔵野から外環道と東北道を経由して舘林インターまで高速料金500円+1500円でちょうど2,000円で行ける距離だ。いつもヤマセミを撮影に行く人吉インターから益城熊本空港インターまでETCなし料金2,100円にほぼ匹敵する。この渡良瀬遊水地は今まで電車でしか行った事が無かったので車で機材を積んでいくのは初めてになる。
 2月18日朝10時半頃現場に到着、ハイイロチュウヒやコミミズクが観察できると云う事で午後3時頃からが見頃と渡良瀬遊水地の案内WEBサイトに出ていた為の重役出勤だった。多分早朝も採餌活動で飛んでいるとは思うが、次回は早朝に行ってみよう。

 しかし、この渡良瀬遊水地は野鳥撮影ファンには相当有名で人気の場所らしく北風が平均10m程吹きつける18日火曜日でも、数えただけで15台を下らない撮影車が居たようだ。特に鷹見台と言われる場所には7~8台の車が何を狙っているのか熱心に双眼鏡であちらこちらを視ていた。
鷹見台という堤防の上の小高い場所が2km程の距離に見えたが熱心な観察者で一杯だった。

その時は突然バラバラと野鳥が数十羽離散した動きで猛禽類の飛来が判断できた。

左の方向から真っ白な大型の野鳥が強風の中斜めに飛んでくるのが見て取れた。

最初はカモメかウミネコの様な野鳥がいわゆるハイイロチュウヒだと判るには数秒必要だった。

撮影している時は判らなかったがやはり金色の目で非常に鋭い精悍な顔つきだ。

パソコンで見れば背中がハイイロと云う事が判るが昼日中太陽の下では真っ白に視えた。


 ここで、あまり良い話ではないがこの地を訪れようとする方へのアドバイスとして今回経験した不愉快なケースを報告しておく。

 珍しいハイイロチュウヒが良く見られるという場所を案内ウェブサイトからアドバイス頂いたので、初めての撮影としては素直にそのエリアに的を絞って準備した。勿論自分でもどんな野鳥か視た事もないので、もし視られればもちろん初見に成る。現場には既に2台ほど先客がいたので、常連者に敬意を表して挨拶かたがたアドバイスを貰らおうとごく普通に話しかけたら、若い一人は「いつ出るか判らないし、何処に出るか判らないんですよねー」との事だった。
ところが直後髭面のガタイの大きなのが、とんでもない御仁でいきなり威嚇されてしまった。「九州で主に撮っています」と自己紹介したら「じゃ、九州で撮ってろよ、此処へ来るんじゃねぇ、自慢なんかしてんじゃねえよ」とこう喧嘩腰で来た。「えっ?自慢などしていないが・・・。」というと「なんだとぉ?」とこうだった。こいつは江戸時代の上州やくざのチンピラの末裔かと思う程だった。
 呆れかえってそれ以上は関わらないで早々にその場を立ち去ったが、その30分後目の前をハイイロチュウヒが横切ってくれたので感動しながら夢中で20カットほど撮影できた。しかしお喋りに夢中でそのガラの悪い御仁は気が付いたときは遅くて撮影出来なかったようだ。せっかくの良いチャンスを逃し可哀相だったが自業自得だ、一体何をしに来ているのか判らない。

 いつも熊本で和気藹々と野鳥を観察・撮影している普段と比べると、ここ渡良瀬遊水地はとんでもなく品の無い、ガラの悪い野鳥撮影者が居るようだ。渡良瀬遊水地に来るすべての野鳥撮影者がそうではあるまいが此処では地元ナンバーの車の人間にはうかつに話しかけない方が良いかもしれない。要は自分の土地の野鳥は他県からの撮影者には撮らせたくないのだろうか?それとも基本的に普段からよそ者には排他的な土地柄なのだろうか?呆れてものが言えなかった。残念ながら、たまたま偶然一番品の無い輩に出遭ってしまったのかもしれないが、愛鳥家は割に皆良い人ばかりだと思っていたのを改めなければいけないかもしれない、残念な事だ。後で地元の色々な関係者に訊いたら実は最近そういうトラブルを起こす人間が居て困っているという。撮った写真をホームページに何処で撮影したと掲載すると脅しに近いクレームが来るという。自然界の生き物は誰のモノでもない、何か大きな勘違いしているのだろう。飛んでいる野鳥はどんなに珍しくても誰のモノでもない。多分他人が良いチャンスをものにして良い画像を撮る事が気に食わないのかもしれない、心の狭い卑怯な性格なのだろう。
 
 ここで断っておくが、不愉快な思いをしたと云う事で栃木ナンバーや、つくばナンバーに乗っている野鳥撮影愛好家すべてがこの手の柄の悪い人種であるとは決して言っていない。勘違いしないで頂きたい。自分には宇都宮市にもつくば市にも仲の良い友人や知人は沢山居る。素晴らしい環境と珍しい野鳥に出遭う為に人気の渡良瀬遊水地に行かれる事が有ったら、この場所ではこう云う事もあるのだという事を頭の何処かに入れて置いて頂けると、何かの役に立つのではないかと思う。

 ところで今回は嫌な体験にもめげず2日連続で渡良瀬湧水地に通った。理由は珍しいハイイロチュウヒを撮影出来たからと柳の下を狙った訳ではない。実は携帯電話を落としてしまったのだ。帰りに車を運転しながらそれに気が付いた。その理由で即翌日再訪し徹底的に探そうと決めたのだ。遺失物は落とした原因、場所を良く考えて即回収行動が発見への一番の近道だ。しかし熊本で例えれば横島干拓とほぼ同じ広さが有る渡良瀬遊水地だからまず出てこないと云う気にもなったが、撮影した場所は全て記憶しているので丹念に探せば出てくるだろうと云う期待もあった。
で、朝9時前に現場に着いて最初の場所から丹念に黒いストラップの付いた携帯電話を捜した。何かの拍子に振り飛ばし道路の両脇の葦に引っかかっているかもしれないと道路わきの草地と葦を丹念に見て回った。道路上に落ちていれば車に轢かれてしまうか散歩の人に拾われているだろうと思った。しかし11時半に成っても主に撮影した6か所から携帯電話は見つからない。昼に成ったので渡良瀬遊水地湿地資料館に訊きに行ったが届けは無いという。

 この時点で広い遊水地全域を半日探して見つからないのでさすがに諦め、気持ちを入れ替えて再度野鳥撮影に向かった。やはりハイイロチュウヒを撮影できた感激からもう一度チャンスが有るかもしれないと13時半頃昨日撮影した場所から背景を変える意味でも少し離れた場所に車を停め脇の草地にバックで停車した。そうして後ろのハッチバックを開けて機材を取り出そうとして何気なく車の脇を視たら、まさに黒いストラップが付いた自分の携帯電話が落ちているではないか!車の脇30cmだった。


 生まれてこの方奇跡と言えるような事態にはあまり出遭っていないが、この時ばかりはまさに奇跡だと思った。同時に何か寒気を感ずるような恐怖も覚えた。有り得るのかこんな事が?へなへなとその場にへたり込みそうになったが、とにかく証拠の記念撮影をしようと一旦手に取り使用可能な事を確認した携帯を発見状態に戻して2~3カット撮影した。同時に周りに人や車が全くいない事を確認して湿地帯全域に響き渡る様に万歳三唱した。アドレナリン120%で心身活性化が起きてくるのが良く判った。きっと宝くじに当たるとこういう気分になるのだろう。

 要は前日も一旦停車して車外に出て周りを見渡した場所だったようだ。つまり自分で気に入った撮影ポイントというモノは何処においても、いつ何時行っても無意識に同じ場所を選ぶと云う事だ。
 氷点下の草原で一夜野宿した携帯なのでバッテリーは勿論スズメの涙程度しか残っていなかった。バッテリー残量計3本が見えず赤い線が薄く一本確認できるだけだったので、掌で思いっきり温めた。そうしたらそのうち目盛は2本まで戻ったのだった。早速関係者にショートメールを送り心配かけた事と復活した件を連絡した。色々な意味で「出来事」の多かった渡良瀬遊水地だった

 週末特集の後、次週はこの渡良瀬遊水地でのチュウヒや多分ハイイロチュウヒのメスと思われる画像などをご紹介したいと思う。