2014年4月13日日曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い #32」 1964年都立広尾高校入学と同時にビートルズ。

 広尾高校15期生はA~F組の6クラス編成だった。総勢約300名の同期だったが男子・女子の比率はほぼ2:1で男子が女子の倍ほどいた。1年の時は我がF組は校庭の外れの木造校舎で他のクラスからは隔離されたような妙な場所だった。4月に始まった授業だがその年は春が遅く、4月下旬まではまだ寒かったような気がする。
 だから休み時間には陽の当たる校庭側に出て皆で日向ぼっこをしていた。

 昨日も述べたが、1964年は色々大きな変革の在った年で、日本における文化風俗・生活インフラなどが極端に変化した時期だった。新幹線や高速道路などを含めて都市の佇まいや交通関係が一段とステップアップした。これらの変化と同時に若者が関わる文化風俗も大変革を遂げていた。特に音楽シーンにおいては今までとは明解に世界が変わった。その筆頭にあげられるのが英国リバプールから出て来た4人組The Beatlesだ。
英国2枚目のBeatles LP、日本での最初のLP{Meet The Beatles」もこのデザインを踏襲している。撮影はドイツ人のアストリッド・キルヘヒャー(=デビュー直前に病死したメンバー、スチュアート・サトクリフの恋人)で、一躍ビートルズを有名にした写真。 

 このビートルズはその売りだし方からして今までの常識を破った画期的なスタイルだった。まず英国中部のマージー河の両サイドに広がる大きな港町リバプールとドイツの港町ハンブルグで耳の肥えたファン達を獲得していった。数年の下積み時代を経た後、まず港町のローカル・スターとして名が出て、次に英国内でヒットパレードのトップになり、頃合を計って米国に打って出たのだ。やはり当時から世界の音楽シーンの中心は米国で、米国での評価がアーティストにとっては非常に重要で、その評価がレコードの売り上げに影響する時代だった。いわゆるブロードウェーやディナーショウなどステージで活躍するエンターテイナーとレコードミュージシャンという2つの分野が明解に判れている世界だった。
 それまでは、ポップ・シンガー、ボーカル・グループ、共にバックバンドの演奏に合わせて歌を唄うというスタイルが主流で、リッキー・ネルソンやエルビス・プレスリーと云ったC&Wの世界からロック・ポップスの世界に入ってきたスターもアコースティック・ギターは抱えているものの実際は余り演奏はせず歌を唄う事に主力を注いでいたのが実情だった。
Rick Nelson


 黒人ボーカル・グループなどもステージ上でリズミカルな踊りなどを取り入れつつも、当時の日本で言えばダーク・ダックス、ポニー・ジャックスの様に綺麗にならんで肩をせり出しながらハーモニーの綺麗さで魅了するのが当たり前の世界だった。
Four Tops


 この様な今までのスタイルを大幅に破って出て来たのがビートルズだった。メンバー各自がエレキ(=エレクトリック・ギター)など何らかの楽器を抱え、演奏しながら歌うという新しいスタイルで、後ろに並んだ大型のギターアンプから大音量のサウンドを流すというのも今までとは異なったステージ環境だった。
楽器を演奏しながら歌うという新しいスタイルのThe Beatles

 テレビ出演においても当時はいわゆる「口パク」という方式で、自分のレコードの曲を流しながらそれに合わせて歌手・アーティストが口だけ開けてさも歌っているように見せているのが多かったのだが、ビートルズはほとんどすべてその場でのライブで出演するか、直前に別室で録音した物を流しながらの口パクだったため、当時のアーカイブを観ると随分いろいろなバージョンが存在して楽しい。同時に演奏の実力は相当完成されたものだと云う事が良く判る。

 ましてやビートルズは英国とドイツの荒くれ共がたむろする港町からのし上がってきた実践派のミュージシャンだったから、ステージ上のパフォーマンスも素晴らしく、その後の世界ツアーでも高い評価を得られたのだろう。いずれ消えてしまうだろうが迫力のあるLive動画をこちらで観る事が出来る。他の似たようなバンドと根本的な部分で何かが違うような気がする。

 このビートルズのLiveを現場で観てしまったら、その迫力とバンドとしてのバランスの良さにショックを受けた事だろう。これは後に来日して東京の武道館で1966年に行ったコンサートに2度行って生で観た時にはあまり感じなかったが、ビートルズ解散後ウイングスというポール・マッカートニーのワンマンバンドのライブをロンドンのハイドパークで聴いたときにそう感じた。

 このビートルズの出現で英国リバプール、マンチェスター、ロンドンなどから数多くのロックバンドが世界に紹介され、その独特の低音部のメロディを強調したサウンドでマージー・ビートと呼ばれ一世を風靡した。日本ではリバプール・サウンドと呼ばれ一時は14~5ものバンドがヒットパレードの上位に迫力のある曲を数多く送り込んだ。特に1964年4月4日付のビルボード誌ではビートルズが1位から5位までを独占し、トップ100に12曲もランクインさせている。まさに広尾高校入学と同時にビートルズが世界で爆発していた訳だ。
  広尾高校の同級生に海外の洋楽に詳しいのが一人いて、家が裕福だったのだろうか当時銀座のイエナという当時は数少ない洋書専門店からこのビルボード誌を毎週取っていた。彼の情報がラジオの音楽番組の情報よりはるかに早かったのを昨日のように覚えている。

遅れて世界の情報が入って来ていた当時の日本でも、ことビートルズに関する情報は割に早く入って来ていた。米国ワシントンDCでのライブ映像はまだ高校に入る前奥沢中学校時代にNHKニュースで紹介され、ほぼリアルタイムに近い時点で観ているし、FEN放送で1時間ブッ通しで「抱きしめたい=I want to hold your hand」を流していたのを聴いている。

 1964年の夏には最初の映画「ヤア・ヤア・ヤア・ビートルズがやってくる!=A Hard Day’s Night」というモノクロ映画が日本でもロードショウされた。たまたま夏休みで八代に帰省していた時に、沖縄の友達と一緒に熊本の映画館まで遠征して観に行った。海外でのビートルズファンの真似をしたのだろうか、熊本でも女性ファン達がキャーキャー言いながらスクリーンにテープを投げたり、スクリーンに向かってフラッシュをたいて写真を撮ろうとしていた。 彼女たちのそういう行動を観ながら、このビートルズと云う現象はその先タダならぬものに成ると想像していた。
モノクロ映画だが非常に印象が強い映画で、最終的に映画館で30回以上観た。

映画のストーリーがペパーバックスに成っていた。LAで購入。

 この映画を友達と一緒に観て、自分の体の中で何かが動き始めたのを感じた。「そうだ!俺たちもバンドをやろう!」これから先はちょっと長い話になる。