2014年6月22日日曜日

 「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #45.」  ● 実録高校学校生活 その1.

東京オリンピックや東海道新幹線開業、アイビーファッションの台頭など大きな時代の変わり目が1964~5年の2年間であった事を述べてきた。しかしこれからしばらくは、「肝心の広尾高校の学園生活そのものはどうだったの?成績はどうなの?彼女は出来たの?どんな生活だったの?」などという疑問に答えようと思う。

 まず、広尾高校の朝は隣の広尾小学校の生徒たちのキャーキャー騒ぐ声から始まる。道路1本隔てた広尾小学校は立派な昭和7年建造の石造りの校舎で鐘楼まで在る。一方戦後建てられた新制高校の広尾高校はやっつけ仕事の木造モルタル2階建て。3階建ての広尾小学校の校舎から小雀達の黄色い声が降って来る。野鳥のスズメの声と同調してうるさい事きりが無かった。
昭和7年設立の「広尾小学校」歴史的記念建造物になっている。

 朝は基本的に恵比寿の駅から現在のバス停・簡易裁判所横の、狭い路地を上がってくるコースが通学路だった。3年生の時だったか朝のNHK連続ドラマ「おはなはん」のテーマ曲が良く流れていたのを記憶している。
NHK朝の連続テレビ小説「おはなはん」 記録的な「おしん」が出るまで最高の人気だった。Google画像

或る時、その簡易裁判所の横の横断歩道の信号が変わりそうになり、走ろうとしたら横を小学生が猛スピードて抜けて行った。次の瞬間停まっていた黄色い都電の裏からタクシーが飛び出てきて「キィーッ!」と云うブレーキ音と共に「ドスン」と云う音がして、その小学生が空を飛んだ!一瞬の事だったが空中を飛んだその小学生と眼が合ったような気がした。ランドセルを背負ったまま手をダラーンと下げて空中を飛ぶ姿は、まるでその頃流行っていた白戸三平の漫画「カムイ外伝」のカムイが飛ぶ姿そっくりだった。15m程飛ばされたその小学生は、しばらくしてむっくり上半身を起こして何事が起こったのかと思うような顔で周りを見渡した。横断歩道付近には登校時なので広尾高校の生徒などが20人は居たと思う。
白戸三平の「カムイ外伝」登場者 

 白髪交じりの頭をしたタクシーの運ちゃんは「朝陽が正面で視えなかった」と声を震わせながら周りの人に説明していた。警察や救急車が来る前に学校へ急いだのでその後どうなったかは知らない。しかし、もしその小学生がこちらの脇を走り抜けていなかったら、こちらが横断歩道を走っていたのは間違いない。そうなればカムイになるのはこの自分だった訳で、後になって汗が沢山噴き出して来たのを覚えている。

高校生ともなれば大人の真似をして、粋がって煙草を吸う奴も出てくる。そうやって大人っぽく見せる年頃なのだろう、日に日にマセて見えるようになる女子の同級生にドギマギした事もある。一方で1年生に入学した時からオッサンのような風貌で「コイツ絶対落第したな」と疑わなかった風体の奴もいた。特にオデコに絆創膏を貼って1年生新入学の記念写真に納まっている大石君などはその典型だった。
彼は新入生時最も目立った男子で、背も高く隣の広尾中学校でバレーボール部だった。がっしりとした土方の様な体格で、身体・風体だけは既に完全な大人だった。その割に、いかつい顔の目の上に大きな絆創膏を貼って記念撮影に臨んでいるのだから「落第した1年上級の奴」と思われてもしょうがないだろう。
しかし実際はハンサムながら無骨な外見に似合わず、冗談ばかり飛ばすとんでもない軟派な奴で、IVY・トラッドなどのファッションを身に着けカッコ付けていたグループの中心だった。
登山部に所属してあちこちの山歩きをしていたらしいが、社会人になった後、家業のペンキ屋を継ぎ順調に事業を伸ばしていたが、残念な事に46歳の時に憧れのチョモランマ・エベレスト附近の登山中大雪崩に在って命を落としてしまった。大きなニュースでマスコミに載った最初のクラスメートになってしまった。
高校1年入学時の大石君。2列目真ん中でオデコに絆創膏。

大石君遭難チョモランマ雪崩事故を報ずる記事。

 もう一人印象深いクラスメートが居る。沖縄から越境入学してきていた宮城君。それほど背は高くないが沖縄の人らしく小麦色で眉が濃く、非常に凛々しい顔をしていた。とにかく運動神経(=反射神経)が凄く、スポーツ万能だった。所属していたクラブは器械体操部だったが、バレーボールでもハンドボールでも球技は抜群の反射神経をしていた。一方でまだ自分がギターを弾けなかった段階でギターを抱えて、結構な曲を弾いていた。
一度彼が夏休みに帰省する際、鹿児島まで国鉄の寝台特急で移動し、それから先を照国海運の定期船で故郷の沖縄に戻ると聞いて、同じ列車で一緒に単身赴任している父親の生活する八代の十条製紙社宅まで戻った事が有った。我が家に3泊してから鹿児島に移動して行った。ちょうどビートルズの「ヤアヤアヤア・ビートルズがやってくる!」を熊本の映画館でやっていた頃だから高校1年生の頃になる。
1964年4月、入学時の集合記念撮影。最前列右端が沖縄から来ていた宮城君。筆者は最後列右から5番目。

 その沖縄から彼が戻って来た時、八代で泊めてもらったからとお礼にビートルズの新曲(アメリカ盤のシングル盤)をくれた。HELPだった。今でも持っているが、その後日本で発売されたLP盤「HELP」に入っているテイクと違うテイクだった。非常に珍しいお土産だった。
1965年当時手に入ったHELP!米国盤シングル、ピクチャースリーブと呼ばれる薄い紙袋入り。HELPそのものはその後世界で発売されたLPに入っているテイクとは明らかに違う。 宮城君のお土産

 ずーっと後、21世紀になって愛知万博の2年前、コスモ石油と早稲田大学理工学部と一緒に「植物による二酸化炭素吸収リアルタイム実験装置」を発明し、「愛・地球博」のコスモ石油ブースで展示実演した。これの準備で、いろんな植物を手に入れようと、沖縄に何度も出張した際この宮城君と再会した。2003年、ちょうどNHK朝の連続ドラマ「ちゅらさん」が終わった直後だったので、非常に印象深かった。
2005年愛知万博の際のコスモ石油ブース出展品「植物によるCO吸収実験装置。

こういった強い個性のクラスメートに囲まれて、あれよ、あれよという間に高校時代は過ぎて行った。もちろん勉強は大嫌いのまま高校生になっていたので、本質的には何も成長していなかったと思う。親は気が気じゃなかったと思うが、本人は至って呑気で大学受験?そんなもの人口が多い同世代の中で現役ストレートで進学する方がどうかしている、きちんと浪人して受験だけの1年を送れば済むだろう?くらいにしか考えていなかった。したがって高校時代の成績は決して褒められたモノではない。

特に数Ⅲ、漢文は赤点、つまり通信簿の1を取った事すらある。物理・化学・生物は通信簿5段階の5なのに、何故数学がダメかと云うと、要は意味のない計算は大嫌いだと云う事に尽きる。「地球と火星が最接近するのは何年に一度か・・・?」などという意味のある数値を出すための計算は全然苦にならないのだが、積分方程式のインテグラルうんぬんで解(答え)が1、だったりすると無性に腹が立つのだ。難しい数式を何度も変式してその挙句の答えがゼロだの1だったりすると、バカにされているような気がしてしょうがなかった。その点、幾何は絵が有るので入りやすく、直感的なものも働かせられるので好きだった。

 授業の中味に関しては正直あまり記憶が無い。世界史の吉田吾郎教諭が教室に入ってくるなり発した言葉をまだ覚えている。「おまえらなー、授業の時くらいタバコやめろよな!」
先生達はそれぞれに個性が在って、大体は覚えている。英語の平岡と云う先生はヘビがカエルを見据えた時の様な顔をしていて眼が吊り上り、小さめの黒目が落ち着きなく左右を見回し、「次は誰に当てようか・・むふふ」と云う陰湿な感じで皆から嫌がられていた。E組の担任だったが、もちろんE組でも不人気だった。で、当の先生もそれは自覚していたようだった。

しかし当時の高校生はユーモアを凄く愛し、実践する行動力もあった。最期の卒業式の日は平岡先生も散々虐めた担任のクラスの皆に何か酷い仕返しをされるだろうと覚悟して来たらしい。 さてE組の皆は何をしたか?まずは最初にクラスの女子で一番かわいい子が大きな花束を先生に贈り、次の瞬間男子が駆け寄って先生を胴上げしたという。予想もしない展開に平岡先生はそのヘビのような両目から涙を流し、床にうずくまってしまったという。今と違って、どこかほのぼのした空気がまだ残っている時代の話だ。武田鉄矢の「金八先生」などまだまだ10年以上先の事。学園ものとしてはテレビで夏木陽介主演の「青春とはなんだ」をやっていた頃だが、現実の広尾高校の方がよほど面白かった。


専門科目は美術、書道、音楽のどれかを選択するのだが、手違いで美術を選べず音楽になってしまった。ピアノを1年間習った為、多少曲は弾けたので授業が始まる前にビートルズの曲などを弾いて皆で遊んだ。その後2年生の4月頃からエレキ主体のバンドを編成して10月の文化祭でビートルズのコピー演奏を5曲ほどやったら、音楽の女先生が大喜びで、通信簿それまで3だったのを最高の5にしてくれた。卒業後訊いた話だが、我がF組担任の高橋先生が何かの間違いじゃないかと、音楽の先生に再確認に行ったそうだ。後で知ったのだが、音楽の安斎先生は実は相当な隠れビートルズファンだったらしい。
まだ、ごく初期の楽器と楽譜を読めるメンバーが殆んど居ない高校生バンド