2014年7月5日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #48.」  ● 実録高校・学校生活 その4.スキー教室編

 夏には伊豆大瀬崎、伊豆石廊崎・蓑掛け岩などへ行き、キャンプを楽しんだ事は既報の通り。では、冬はどういう遊びをしたかと云うと、これはもうスキーに熱中したという事実に尽きる。つまり16歳から60過ぎまでずっと楽しんできたウインタースポーツに関しては、この高校1年生のスキーから始まったといっても過言ではない。
都立広尾高校では毎年12月末になると、スキー教室が有った。希望者だけだったが、ほとんどのクラスメートは参加した。1964年の12月の段階で筆者はスキーと云うモノの知識は全くない。唯一、三浦雄一郎が富士山を直滑降すると宣言してマスコミを賑わした直後で、NHKで事前準備中の彼を追いかけたドキュメントを観た程度だった。道具には触った事すらなかった。
1966年富士山直滑降本番の画像 Googleフリー画像より

スキー教室に行くことが決まって、スキー道具を買う事に成った。一度に全部そろえる資金は無いので、その頃始まった月賦販売の店「丸井」で買う事にした。その頃の丸井は中野本店以外まだ支店も少なく、都内に4店舗しかなかった。月賦と云う名前がクレジットと云う表記になったばかりだったが、世間では月賦屋という商売で普通の百貨店とは同等に扱われなかった。何処かと云うと恥ずかしい買い物方法だと思われていた。
1964年当時の丸井中野本店、スキー売り場は半地下のような場所か別棟だった気がする。

 取りあえず、中野本店のスキー用品売り場に行った。その頃のスキー用具の選び方には一つの目安が在った。スキーの長さは自分が立って手を真上にあげて握れる長さが好ましく、ストックはちょうど脇の下に入るくらいを良しとされていた。これだけを頭に入れて丸井中野本店に行ったのだった。ところが、店頭に並んでいるスキー板を観ると、どれが良いのかとんと見当がつかなくなった。あらかじめスキー雑誌で観ていた有名ブランドの板が、実際目の前にずらりと並ぶと迷うのだ、皆さんも似たような経験があろう?クナイスル、フィッシャー、ヘッドなど有名どころが沢山並んでいた。ロシニョール、ブリザード、ダイナスターなどはまだ日本には入っていなかった。
右の2本は1964年頃にも在ったような気がする、左のロッシは70年代以降。

しかし、皆何れも高い!予算の倍以上もあったのだ。そこでカザマだのオガサカだのニシザワといった国産の板にしようと選び始めたが、つい先日「三浦雄一郎・富士山直滑降展」で観たばかりのHATA(波多)のメタルの板が気に入った。そこで購入しようと、長さを見ている内に在る事に気が付いた。175cmの板も200cmの板も皆値段が同じなのだ。何も知らない私は思った。「同じ値段なら長い方が絶対得じゃん?」これが後で自分の首を絞めるとは夢にも思わなかった。

その他いろいろ、ダブルの紐締めの革靴を含めて購入した。全部手に持って帰ったので大変だった。今と違って宅急便など影も形も無い時代だった。どうやって全部を持って帰れたのか覚えていない。戻るとすぐに家の中で靴を履き、ビンディングに固定し歩き回ったものだから畳が擦れてギザギザになってしまった。当然、厳格な祖母に滅茶苦茶怒られた。その頃単身赴任状態で父を熊本の八代に置いてきた我が家族は、東中野の祖母の家に居候していたのだった。

スキーの道具が嬉しくて、ある日曜日一人で留守番をしながらスキーウエアを着て靴を履いている最中、玄関に来客が在った。「新庄憲彦君はいますか?」鳥の巣のような頭の毛をしたその娘は4歳年下の弟が通う中野三中1年生のクラスメートだった。いきなり玄関に出て来たスキースタイルでしかもスキー靴を履いた男を観て、彼女は目を丸くして相当驚いたようだった。何の用事だったのかは忘れたが、ちょうど弟は不在で、その娘はまた来るとは言っていたが、二度と来なかった。それから10年程してその娘が芸能界に進み、松坂慶子と云う女優・歌手になった事を弟から聴いて知った。弟には未だにこの留守の時の件は詳しく話していない。後にお気に入りで毎回見ていたNHK大河ドラマ「篤姫」で活躍している姿を観て「これが、あの時の鳥の巣頭の娘か・・」と感無量だった。
左が松坂慶子さんの中学校時代らしい。雑誌画像

スキー教室は上野駅の地上ホームから夜行列車で出発だった。既に仙台までは電化されていたが、夜行の急行列車はまだ電気機関車⇒蒸気機関車のリレー、もしくは最初から蒸気機関車で走っていたような気がする。
上野駅地上ホーム、日本には珍しい行き止まりの終着駅式ホーム。

当時のスキーは、宅急便も無い時代なので自分で持ち運ぶしかなかった。

列車は急行「津軽」もしくは急行「第2おが」のいずれかだったように記憶している。もちろん客車は木造の旧式客車だった。これに好き勝手に座り雪国へ向かうのだった。福島を過ぎて山形方面へ向かった途端雪が深くなった。皆は殆ど眠りこけていたが、興奮している筆者は列車の窓ガラスにものすごい勢いで広がる氷の結晶、つまり雪印のロゴマークを視て驚いていた。結局上の山駅に着くまで寝たのは、ほんの2時間程だったと思う。
奥羽本線は雪が深いので有名だった。

氷点下の窓ガラスには雪の結晶が目視できるスピードで出来て行った。

国鉄の駅から蔵王温泉スキー場までバスで向かったのだが、朝陽を山々の切れた所から受けながら上へ上へとカーブの連続で登って行ったのを覚えている。旅館に着くと既に温泉街特有の黄色い硫黄の匂いで辺りは別世界だった。匂いには結構敏感な筆者だが、デパートの化粧品売り場の匂いよりは、遥かにこの温泉場の卵の腐った様な臭い匂いが好きなような気がする。志賀高原や野沢温泉村など、温泉地にはその後結構行く事に成るが、この蔵王温泉の匂いより強い匂いは未だに出遭った事が無い。

こういった経緯で、此処で私は生まれて初めて雪の斜面をスキー板で滑った訳だ。

スキー教室の最初はスキー靴を履いて、温泉街から300m離れたゲレンデの集合場所まで行く事だった。この段階で7名ほど転んでしまう程の足場の悪い坂道だった。ゲレンデと言っても完全な初心者なのでリフトなどは無く、ただ広いだけのなだらかな斜面だった。

都立広尾高校のクラスメート女子達、全員がゼッケン番号を付けさせられた。

 当時のスキーウエアはスキーパンツを靴の中に入れる方式だった。ビンディングはカンダハー式、靴は革靴で紐で締める方式だった。

いくつかの班に分ける為、まずまっすぐ滑らされた後自己申告で完全初心者か一度は経験がある者かに分けられた。バレーボール部で半年以上やって来たから、運動神経は在る方だと自惚れた私は中級クラスに入ったが、これが大間違いだった。
第1次スキーブームの頃、ゲレンデはこうしたスキー教室で一杯だった。

雪の上に出て斜面を歩いたり、見よう見まねで斜面に並ぶのは直ぐに出来た。何だ、簡単だ!と思ったのはほんの数分の間だけだった。スキー教師に「はいっ!斜滑降で滑って山廻りターンで止まって!」と言われ、前の人に続いて真似をして斜滑降で滑ったまでは良かった。しかし山廻りターンと云うのがまるで判らない!スキーのテールをズラして山の方に登って行くのだが、初心者には全く出来ない。そのまま転ぶまい、転ぶまいと頑張った結果、どんどん加速してスピードが上がってしまい、ゲレンデの端の雪庇から崖下に落ちてしまった。欲張って長い重たいスキー板を買ってしまった事が、此処で己の失敗に繋がったのだった。

気が付いたら周りは真っ白でどちらが上だか判らない。自分がどんな格好をしているのかも判らない。痛い所は無いが、蜘蛛の巣に引っかかった昆虫の様だった。まず顔の周りの雪をとにかく食べたり舐めたりして空間を造った。10分ほどして人の声がして助け出された。そこは駐車場の雪を除雪して積み上げてあった所にまた雪が吹き溜まった場所だった。駐車してあったトラックの上に落ちていたら大怪我をしていただろう。15m程ずれて助かった。

スキー教師に「直ぐに初級クラスに行くように!」と言われて初級に入り最初からやる事に成ったが、その日の夕方には一人でリフトに乗ってボーゲンでバンバン滑れる様になっていた。
当時のスキー所は何処もこういった芋の子を洗うような状態だった。

この時の発見!東京では随分前に消え去っていた板垣退助の100円札が堂々と流通していたのだ。これは田舎だからではなかった、スキー場の雪の上で百円玉を落とすと、何処に行ったか分からなくなってしまうので、リフト券売り場などでは、まだまだ100円札のほうが重要な通貨だったのだ。なる程と感心した覚えがある。

スキー場から戻ると、皆各部屋に入るなり、あるいは旅館のロビーで着の身着のまま倒れる様に寝込んでしまった。大部屋で摂ったと思われる食事の記憶は余り無い。しかし街中の共同温泉に行った時の悪戯は未だに忘れない。
蔵王温泉の旅館街の中心道路はあまり変わっていないらしい。泊まったのは三浦屋だったか伊東屋だったか・・・。

濁った蔵王温泉の湯質は共同風呂も全く同じだった。我々男子は街中の共同風呂を全部入ろうとクラスを越えて連れだって出陣した。最初の共同湯は木造建築で男湯と女湯の境も木の塀で出来ていた。しかしお湯面近くは桟のようになっていて、男湯と女湯の湯は水位が同じで循環していた。なおかつその桟が硫黄温泉の湯のお蔭で腐って半分以上抜け落ちていた。で、この隙間から潜って女湯の方に行ってみたのだ。温泉の湯殿はもうもうとした湯気で何も見えないし、もちろん湯の中も濁っていて見えない。しかし息を長く止める訓練は散々海でやったので自信があった。手探りで女湯の方へそろそろと進んだ。
当時よりは男湯と女湯のプライバシーが保たれている。しかし木造りの雰囲気は変わらない。

潜ってしばらく進んだら、むにゅっと柔らかい大きな壁の様なものにぶち当たった。残念な事にそれは地元のオバサンの大きな臀部だった。キャーッという声と共に・・・後は想像にお任せするが、思春期・高校生男子の心には夢を壊す様な無念の大きな傷が残ったのだった。