2014年9月14日日曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #67.」 横浜国大サッカー部と‘70年大阪万博!

 1964年東京オリンピック以降で最大の国家的イベント、大阪万博(1970314日~913日)には色々な関係上最終日に行く事になった。連日35万人以上の入場客数で大混雑の模様がニュースで流れ、行くのを躊躇っているうちに最終日近くになった訳だ。

  当時既に横浜国大サッカー部に所属していた筆者は、万博最終日前日の夕方、永田町の都市センターホールでモダンバレーの全国コンテストに主役の周りで踊るダンサー(アルバイト)として出演していた。もちろんこれは自分から進んで参加したのではなく、機敏で筋肉質の男子が5名必要だとの要請を横浜国大サッカー部が受けて、先輩の命令で有無を言わさずやらされたものだった。出演を終えて、脂っこいドーラン化粧を落としながら東京駅に駆けて向かったのは、夜の9時頃だった。ほぼ最終の新幹線下りで浜松か豊橋まで行き、急行列車の「能登」に乗り換え米原まで行き、其処から鈍行の普通列車で新大阪まで行った記憶がある。若かったから出来たのだろう?一人旅だったが九州往復に比べればどうってことは無かった。小さいときからの一人旅に慣れていたせいか、いよいよ万博に行けるのだとワクワクもした。
お祭り広場の大天井 Google大阪万博画像

 万博の入場ゲートは意外にも待ち時間も少なく入れたようだ。むしろ入ってから、月の石展示で人気のアメリカ館その他が長蛇の列で、テレビ報道そのままの万博見学だった。1日ですべてのパビリオンに入るのは無理なので、空いている所を重点的に見て回る事にした。ニュージーランド館、オーストラリア館、カナダ館など足で稼いで空いていると見るやサッと入って足早に次を目指した。この方法で会場内を回った結果1日で16のパビリオンを観ることが出来た。
万博会場案内図 パンフレットの一部拡大

 此処で、思わぬ収穫が有った!というのも、最終日だけに午後になると各パビリオン、ブースも撤収・片付けに入ったのだ。つまり展示品やノベルティの類は、半年間使ったため廃棄処分にする物が多かったのだろう。汚れ、破損、海外のブースは国へもって帰るより、廃棄処分のほうが効率良かったと見える。で、各ブースを回ると「これ持って行って良いよ?いらない?」と声をかけられた。 こちらが余程もの欲しそうな顔をしていたのだろうか?まず西ドイツ館でアディダス社製の大きなダッフルバッグと金属の蓋の付いた豪華なビールジョッキを貰った。此処に始まって、英国館のスコットランド・ブースでタータン柄のテーブルクロスとネクタイ、ウイスキー銘柄の灰皿、オーストラリアでブーメラン(飾り物)、コアラのぬいぐるみ、東南アジアの国で木製のボウル大中小セット、ソビエト館でマトリョーシカ、あの玉葱みたいに次々に中から人形が出てくる奴だ。ほんの2時間歩き回っただけでダッフルバッグは色々なみやげ物で一杯になった。最終的にはせっかく各パビリオン・ブースで貰ったパンフレットが重くて捨ててしまったほどだった。
 
 おかげで、オープニングの日にTV中継で視たあの有名な、空中テラスのようなお祭り広場には行かず仕舞いだった。だから岡本太郎の太陽の塔は1985年阪神が優勝した年、大阪のボートショウが千里の万博公園で開催された時に、初めて全体像を間近に観たのだった。それに万博は一人で行ったため自分の記念写真は1枚もない。というより、都市センターホールでステージに出た後直行だったのでカメラを持っていかなかった。
在りし日のお祭り広場 Google画像
2006年に立ち寄った万博公園お祭り広場跡

2006年万博公園のアメリカ館跡地付近 森になっていた。この跡地にはオオタカが営巣するなど完全に自然回帰している。距離60mほどでオオタカに出遭えたのも、この跡地公園のまさに野鳥の森というエリアだった。 

 話が前後したが、サッカー部に入ったのは1970年の4月からだった。同期の体育科のメンバーで既にサッカー部に入っていた4名に聞いて、グランドで茶色い土煙を上げている場に直接行ったのだった。グランドはとてもサッカーをするような環境ではなかった。雨だろうが雪だろうが練習日が重なるときには、ラグビー部と半分ずつの共有を余儀なくされていた。当時の横浜国大ラグビー部は全日本クラスも居て結構強かったらしい。

しかし、強いからだろうか、それを鼻にかけたように練習中の態度が野蛮だった。パスの繋ぎの練習なのだろうが、サッカー部のフィールドのフォーメーションにドンドン割り込んで入って来ることが多々あった。クレームを付けるとデカイ体で相手の胸を押して押し倒したりする。

実はこの卒業生の先輩の一人が後に博報堂で同じセクションになり、なおかつ上司になるというドラマのような展開になるのだが、酒癖の悪いこの人物は大学のときのままの強引なスタイルで仕事をしていた。きっと脳の中にはグランドの泥が詰まったまま社会人になってしまったのだろう。

 最近のラグビー日本代表は頭を使って非常にスマートな集団だ。世界でも上位にいけそうな気配が見られるが、この当時のラグビー選手はたぶん脳味噌まで筋肉で出来ていて、人間より類人猿に近い者が多かったようだ。もちろん決して全員とは言わないが・・・。
当時のグランドは左の空き地に見える部分だったが、赤土グランドで酷かった。

 このサッカー部での色々な事件も少し述べておこう。1970年の4月、つまり2年生になってすぐから春合宿に参加したが、小学校以来長い事サッカーをしたくても出来なかった環境下に居たため、事実上初めてのサッカーだった。
 しかし、足が速かったのと動物的な感で、部員30名以上の中で割りに早く準レギュラーになれた。練習試合でも早くから得点する事が多く、夏の箱根仙石原合宿では期間中の総得点で2学年上の体育科の先輩ストライカーと同点になった。この先輩とは合宿後行われた関東甲信越国公立大学選手権で優勝したときも得点王を分け合った。
神奈川県知事杯同点優勝・和歌山国体神奈川県代表権を得た頃(実際は東芝チームが参加)筆者は右端(=右ウイング)

横浜国大サッカー部同期メンバー(このほかに同期は5名居た)右から2番目筆者。

神奈川リーグ戦での筆者右端 珍しい足での得点シーン。通算はヘディング得点が多かった。

 クラブに入って3~4ヶ月でチームの得点王に成れたのだから、余程サッカーというスポーツが自分の性格に合っていたのだと思う。当時の世界のトップはイングランドサッカー、マンチェスター・ユナイテッドのジョージ・ベスト、ボビー・チャールトンであり、ブンデスリーガのゲルハルト・ミュラーだった。東京12チャンネル岡野俊一郎解説の「三菱ダイアモンドサッカー」はもう絶対に見逃さなかった。この放送で視たジョージ・ベストのダブル・ハットトリック(1試合6点)に驚嘆した。

西ドイツの「ザ、ボンバー」ゲルト・ミューラー(=ゲルハルト・ミューラー)

 2年の4月からサッカー部に入った時に、実は5年生が3名居た。いずれも工学部所属で新入生が多数入ったのでサッカー部が強くなると言うことで、わざわざ留年した人が居たらしい。たぶん層が厚かったので関東甲信越大会で優勝したのだろう。最盛期に所属できて良い思い出になったと思う。

 この横国サッカー部では2つの大きな事件を思い出す。暮れも押し迫った12月のある日、練習に渡辺先輩が来なかった。横国のサッカー部は人数が多いので、練習を1日サボると3日はレギュラーポジションを他のものに奪われてしまう。それほど厳しいレギュラー争いの中、練習をサボったのが反対側のウイングに居た渡辺先輩(=渡辺正則氏)だった。右のウイングポジションだった自分が、いつも動きを見ながらクロスをあげていた相手だけに非常に気になった。

 翌日の練習にも来ないので「渡辺さん、病気ですかね?」と訊いたら「えっ?お前知らないの?渡辺さんは捕まったんだよ、赤羽の交番を襲って怪我して逮捕されたんだよ。」というではないか。なんと体育会サッカー部チームメイトが、京浜安保共闘の過激派メンバーだったというわけだ。これには呆然とするしかなかった。筋金入りの過激派が我が身の一番近くに居てパスのやり取りをしていたわけだ、人の裏面はまことに不可思議だと学んだ。
サッカー部フォワードの一人が交番を襲撃というショッキングな事件。

 その後クラブ内でこの件を話すことはタブーとされた。その後渡辺さんがどうなったか全然わからない。
サッカー部のOB名簿などにも渡辺さんの名前は出ていない。

 サッカー部での事件の2つ目は納会だったか、祝勝会だったか記憶にないが、日の出町の盛り場で祝杯を上げていた所に、後から入って来ていた地元のヤクザらしいチンピラが因縁をつけてきた事件。筆者は酒を一滴も呑めないし、先輩たちが居るので、遠巻きに見守って置けば、すぐに収まるだろうと思っていた。しかし酔っ払いというモノは、アルコールが入ると気が大きくなるのか、別人28号になってしまうのか、先輩たちがチンピラに何かを言った様だった。チンピラ達の「テメー表へ出ろ!」の大声で一同表に出ることになってしまった。そこで酔っ払い同士の殴り合いが始まったのだが、サッカー部の先輩たちはチンピラたちより前から呑んでいて、足元もおぼつかなかった。で、倒れている先輩を肩に担いで退避させようと思った時に、後ろからいきなり何かで殴られてしまい、あっという間に戦闘に巻き込まれてしまった。
日の出町駅前はまだ市電が走っていた。 Googleフリー画像

 組み付かれ、道路に転がされたり、サッカー部だけに相手の股間を足でけりまくったりの攻防がしばらく続いたのだが、ふと見ると、周りに味方が居ない!相手が4~5人居るのに戦っているのは、自分を含めて2人しか居ないのだ!えっ?味方は10人以上居るはずだろう?どうなっているんだと思った時、近づいてくるパトカーらしきサイレンの音が聴こえて来た。誰ともなく「やばいぞ、逃げろ!」の声が響き、全員思い思いの方向へ走って逃げた。とにかく逃げた、息が切れても走った。何処をどうやって走ったかは全然覚えていない。やっと桜木町の駅までたどり着いて気が付いたら・・・・裸足だった。

 それから1年間、日の出町駅に降りられなかったのはもちろんの事だった。