2014年9月6日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #64.」 1969年横国大封鎖中に、自主授業であちこちスケッチ旅行。

自主授業は思いのほか順調に進み、連日あーでもない、こうでもないと理想論に向かっていろんな意見が出たが、「もちろん提案した人がそれを進める、実践するんだよ?他人が実行することを前提に物事を発想しないように!」と釘を刺した途端発言が減ってしまったのは、当時も今も変わっていないという事だろう。
だから、浮世絵の研究をしたいと提案したのも、我が家に本物の浮世絵があったからに他ならない。自主事業が長く続いていたら、我が家の昔からの掛け軸各種や古伊万里の皿などを持っていくつもりだった。

今になって考えてみると、この自主授業の素晴らしかったところは、誰かが著述した本や資料を「教科書」にして、その著述内容や解説内容を学習・確認するのではなく、本物の現物を、あるいは自分たちで実践・体験した内容を、自分たち自身で判断・納得した事だろう。他人の意見や考えを「鵜呑み」にせず、自分自身で理解して自分なりの判断を持つということを磨いた時期だと思う。

これが、最近の情報端末(スマホやPADなど)でネット上の気になる情報を引き出して、「いいね!」をするだけ、あるいは他人に伝えるだけ・・・といった軽い関わりではなく、話題の情報源、たとえば展覧会、講演会、展示会(見本市や発表会)に自分で現場に行って参加して自分なりの目線・解釈で情報発信する自分なりのスタイルに繋がっていると思う。

つまりは一過性のバーチャル情報よりリアル体験を重視、バーチャルなフェイスブック友達より、実際に逢って話せるリアル友達を重視する生き方に大きな影響を与えていると思う。

浮世絵は色々な作家の現物を活用できた。

 この自主授業を担当する事で、皆それぞれ自分で授業を構築して先生役を行ったり、レポーターになることが如何に大変で、事前準備に大変な時間が掛かるかを知った。本来は大学の教員養成課程の授業で教わるべき事を、既に授業が始まる前に自らやっていたわけで、後になって非常に納得したものだ。1時間の授業を一生懸命やろうとすると、事前準備にはその3倍以上の時間が掛かってしまう。
自主授業は真夏の休暇期間まで3ヶ月ほどは連日充実して行われた。

 教室での自主授業が軌道に乗って3ヶ月経ったころ、たまには教室外でスケッチ合宿をやろうということになり、山が良いか海が良いか多数決で決めた。圧倒的に開放的な海が良いという。やはり辛かった受験時期のストレスを徹底的に発散するには、広い海を見たかったのだろう。そこで広尾高校時代、台風のさなかキャンプした伊豆石廊崎の蓑掛岩のキャンプ場に行くことになった。伊豆急電車とバスを乗り継いで蓑掛大瀬に着き、2泊3日のキャンプがスタートした。
このあたりは http://yamasemiweb.blogspot.jp/2014/06/blog-post_29.html を参照されたい。
高校のときに体験していた事が非常に役立った、伊豆石廊崎・蓑掛大瀬キャンプ場。

教授陣は初日から國領教授、小関教授、真鍋教授、三浦教授が参加され初日だけで戻られるはずだったが、2名が最後まで行動をともにされた、非公式な正式授業でもないのに、これは信じられない事だった。体育専攻科の単位習得のための水泳・遠泳合宿でもないのに教授陣が行動をともにされたのは新入生たちにとっても非常に有意義な事だった。
麦藁帽子が國領教授、後ろは蓑掛大瀬の公民館。

特にこの合宿を一緒に過ごした國領先生は、その体験を大きな油絵に仕上げて日展で特選を受賞された。これは我々も大いに喜んで全員で揃って日展を観に行きお祝いをした。國領教授はこの時の模様を自分にとって非常に大きな収穫が有り、記念すべきキャンプだったと後に話しておられた。そのテントの中で夜ランプの灯火を頼りに筆者をモチーフに描かれたスケッチを下さったが、いまだに大切にして飾ってある。後に点描画家として著名になられたが、あれこれと親身になって色々教えてくださった恩師だ。
右が日展特選になった「砂上の風景」このキャンプで昼寝をしたクラスメートがモチーフか?

現場で描いて頂いた國領先生のスケッチ。

この野外キャンプで味を占めたのか、クラスメート同士であちこち日本中をスケッチ旅行と称して回る事が流行った。ちょうど鳴り物入りでスタートした1970年の大阪万博開催中でもあり、アメリカのDiscover Americaを真似た国鉄のディスカバー・ジャパンが全盛期を向えようとしていた。同時にメルヘンチックなファッションを着飾った女性達が、日本中の名も無い田舎駅に溢れたのもこの頃だ。フリルの付いたワンピースを着てコルクシューズを履いた女性たちが古い駅舎、古い木造の小学校を見つけてはその前で記念写真を撮った。我々の同級生でそういった流行に乗ってのスケッチ旅行をするものは殆ど居なかったと思うが、それまでの日本の常識よりは楽しむ旅に出る一般客が急増したのは間違いない。
ディスカバージャパンのポスターは人気だった。 Googleフリー画像
※東京駅ステーションギャラリーで来週から展覧会がある模様

特によく行ったのが信州界隈で、八ヶ岳山麓・野辺山・佐久地域、松本・安曇野近辺、長野善光寺・小布施近辺、金沢~能登エリア、高山・中仙道宿場町近辺。どちらかと言うと昔ながらの茅葺の家や民家が立ち並ぶ日本らしい景色でスケッチの被写体になりやすいエリアだった。もちろん鉄道好きの筆者が蒸気機関車SLの撮影を兼ねようと目論んだルートばかりだった。
北陸線沿線にはこのようなディスカバージャパンの広告風の木造の学校がまだ沢山在った。

もちろん電化されていない路線が多く、SLも現役で沢山動いていた。

しかし、このスケッチ旅行に関係する大阪万博の話、更に1970年に創刊された平凡出版のファッション雑誌アンアンに関しての話はもう少し後にして、肝心の横浜国立大学に関する1969年秋の封鎖解除の一大騒動の話をしよう。
出来るだけ距離を置いてきた学生運動、過激派全共闘と、とうとう直接関わりあう羽目になってしまったのだ。