2014年10月4日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #72.」 1972年春休み、英国短期留学ホームステイ始末記 その4.果たして英語は身に付いたのか・・。

1972年の英国短期ホームステイ留学ツアーは、自分にとっての初めての外国だった。当時は海外旅行に関してまだ外貨持ち出し制限というのがあって、3000ドルがその上限だった。当時は1ドル360円時代だから約100万円が限度と言うわけだ。英国の場合1ポンド=864円だから、16万円ほどを持って出ているのが記録されている。ちなみに当時のサラリーマンの平均年収は13万円程度。我が家も裕福な家庭ではなかったし、旅行費用はほとんど自費だったので、両親からの餞別は3~4万円だったように記憶している。とうとう親に小遣いをせびった事が一度も無かったが、はたして親としてはどうだったのだろう、少しは甘えて欲しかったのだろうか?
記憶では1ポンド=1000円程度だと思っていたが、860円くらいだったらしい。

 自分でパスポートを申請して取りにいったが、当時も今も有楽町の交通センター以外で交付された事がない。ほぼ45年の間同じ場所と言うのも凄いことだと思う。幾分手続きは簡素化され、スムーズに成ってはいるものの、やはり面倒くさいのは昔も今も変わらない。写真だけは最近は自分で撮影している。
最初のパスポートから4冊は5年間有効だったが、USAのビザが4年更新だったので合冊。現在までに8冊のパスポートが残っている。

 余計な話だが、前回2011年の渡欧時のユーロやポンドが20万円分以上残っていたが、ここ数日の円安で少しだけ儲かったようで、少し気が大きくなっている。こんなことで一喜一憂している己は他愛も無いものだ。

話を英国を去る頃の話に戻そう。3月5日早朝にロンドンに着いた日は前日の大嵐(=低気圧通過)による風と雪で死者まで出ているのに、それ以降ロンドンを出る3月31日までなんと英国はずーっと晴天が続いたのだ。相当久しぶりの晴天続きで英国としては記録的な事であったらしい。それ以来自分が何かアウトドア・イベントに参加したり、運営側としてプロデュースをする時の晴天率は恐ろしい程高いのだ。
滞在中、ボーンマスは晴れっぱなしだった。

時には交通事故の瞬間を撮影したこともあった。旅行ツアー参加者が車にはねられ入院した事もあった。同じ左側通行の国だったが交通ルールは日本のように事故の際、いい加減な両成敗ではなかった。横断歩道ではないところを横切って、はねられた観光客側が100%の責任で、はねた車の過失はゼロだった。善悪がはっきりとしていた。道路にいきなり飛び出すものは、鹿も人間も一緒だそうだ。はねた方としては不可抗力ということだろう。

たとえば1985年から1994年まで10年間続いたウインドサーフィンのフロム・エー・カップ(リクルート・フロム・エー主催)の合計レース日数は26日間だったが、雨天・強風などで中止になった事は1日しかない。実施率97%という超高確率のアウトドア・スポーツイベントだった。
1985年から10年間続いた「フロム・エー・カップ}一般参加型のウインドサーフィン大会。

小・中・高の遠足・運動会も中止や延期は一度も経験無い。小学校は4箇所、中学校は2箇所も転校して通っているにもかかわらずだ。実質的にいわゆる「晴れ男」なのだろう。これはあくまで科学的には何の根拠もなく、まったくの偶然に違いないのだが、あまりの晴天効率の良さにヤマセミ撮影にもこれが良い方向で影響することを願いたいものだ。

また話が飛んでしまった。話を英国に戻そう。

ボーンマスを去る日が近づくにつれ、ホームステイ先の近所の人々の誘いが増えた。週末はスケートリンクへ行こう、ゲームをやろう・・・など盛んに誘ってくれた。英語もそこそこ慣れて、レベルは低いままだろうが、気がつくと知らぬ間にごく普通にやり取りしている自分が居た。筆者の英語力の変化に一番驚いていたのが一緒に行った小池隆一だった。

文法はもちろん良く判らない、だから日本の英語のテストを受ければ前と変わらない成績しか取れないだろう。しかしオウム返しで学んだ日常会話の会話は必要に迫られて覚えてしまったわけだから、しっかりと身に付いたのだろう。北九州の小倉から熊本の八代に転向した頃、花壇の穴を掘る説明で担任の先生に「ぎゃんして、こぎゃんして、きゃー掘るとたい!」と言われて、頭が真っ白になった経験が、遠い英国の地で生きた訳だ。いつの間にかボーンマス訛というか地元の言い回しで、ホームステイ先の家族と普通にしゃべっている姿を見て、相当驚いたらしい。
近所の寄り集まり所でも、語学学校でも珍しい東洋人は「お喋り会」に参加させられた。

 今は野鳥の撮影に山に入った時、鳴き声を真似して、アオゲラやアカショウビンを呼び寄せられる事もあるが、それに比べれば英語など、相手が同じ人間だもの、身振り手振り、顔の表情もあればお互いの意思は通じ合うと思う。話はまた横道に逸れるが、日本と言う国は明治の昔からこういう日常会話のやり取りより、ペーパーテストの成績で英語能力を測ろうとしたのが大失敗だったのではないかと思う。慶応義塾大学の英語の試験にアメリカからの留学生が合格点をもらえなかった(実話)と言うのも何処か可笑しな話だ。通詞あがりの福沢諭吉の始めた学校ですらこれだもの。

今は、ただ垂れ流しの英語を聴くだけで覚えるという教材もあるようだが、正直言って相手が居なければ英語は身に付かない。英語を早く覚えたければボーイフレンドでもガールフレンドでも良いから、英語圏の友達を作るのが早道だ。日本人の英語が上達しない理由の半分以上は、単なる外人コンプレックス、外人に接する事に対する慣れが無いだけの話。日本国内に居てはこういった環境は少ないので難しいのだろう。その点、強制的にボーンマスのホームステイ先に放り込まれてみれば、一番近い日本人=小池のホームステイ先はバス停で6つも離れているし、生活の場の周りは全員生粋の英国人だ。

いわば筆者はロビンソン・クルーソーに拾われたフライデーみたいなもの。食事をするにも、トイレに行くにも英語をしゃべらねば生きていけない環境。この状態に入りさえすれば誰でも英語は自ずからしゃべれる様になる。
昔のロビンソン・クルーソーの本 Googleフリー画像より

最近は日本国内で帰国子女たちが大きな顔をして、バスの中で声高に英語で会話しているが、親の転勤の関係でそういう環境に居ただけの話、誰でも同じ環境になればしゃべれるようになる。別に帰国子女達は頭が良い訳でも才能がある訳でもないので、偉くもなんとも無いのだ。

こうして、ボーンマスからロンドンへ移動するためのバスが出る語学学校まで迎えのタクシーに乗ろうとしたら、なんと18名の近所の見送りがエルムズ通り41番地に集まってしまった。全員とハグをして別れたが、結局ウインボーン通りまでホームステイ先の二人娘、アニタとニコラが追いかけて来てしまった。その後二度と会うことはなかったが、元気で居れば今年で52~3歳になっている筈だ。
右がアニタ、左がニコラ。どうやら北欧系の英国人家族らしかった。

 語学学校でのバスの出発時はもう大変!現地で恋仲になったのだろうか、金髪の男の子の胸に顔を埋めて泣いている女の子や、バスの中と外でただジーッと見詰め合っているだけの二人など、誰が見ても語学以外の事柄も沢山学んだのだという事がすっかり判ってしまうのだった。金髪の男の子の胸に顔を埋めていた女の子も気が済んだのだろう、どんなに可愛い子だろうと少し期待したが、こちらに顔を向けた瞬間「あー、相手が俺じゃなくって良かった」と思ってしまった。