2014年10月25日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #78.」 VAN入社までのプロセスは勿論すべて初めての経験だった.

 まさかのその日のうちの採用内定通知電報に驚かされ、あわてて本当か?と思うまもなく翌日電話が掛かって来た青山ヴァン・ヂャケットの人事課。大学受験に成功した時より、はるかに嬉しかったのを記憶している。とにかく事が進むのがスピーディだった。余計な事を考えたり、別の選択肢を考える余裕を与えない人事担当者からのアプローチの速さだった。これが石津謙介社長の指示なのか、人事担当の普通の業務スタイルだったのかは勿論判らないが、のんびりとした学生にとっては大変刺激的な事だった。

 改めて入社筆記試験を受けて頂く・・という事で、本来の筆記試験を受けたのだが、それが表参道の青山会館で大人数で受けたのか、はたまた再度ヴァン・ヂャケット本館で他の内定者10名程度と一緒に受けたのか、記憶が定かではないのは何故だろう?ただ、いくつかの選択肢があったと思われる設問の一つに、石津社長との面談時に話に出た「白という色について」というテーマがあったので驚いたのを覚えている。何故、このあたりの記憶が定かではないのか?それは既に本人がヴァン・ヂャケット以外への就職を、これっぽっちも考えていなかったからだろうと思う。
1972年当時のヴァン ヂャケット会社案内

  この入社試験を無事に終了して、いよいよ新入社員・全員による入社セレモニーだの泊りがけの研修合宿があった。残念ながら入社式の場所や内容は覚えていない。もともとセレモニーが大嫌いなのだ。研修合宿は割に海に近い近代的な施設だったと思う。部屋割りも覚えていなければ、食事の内容、風景などの記憶も無い。たぶんうわの空だったのだろうすべてが。そんな中で大広間に全員が集まり数名でグループを作らされ、何か共同で新しいビジネスの提案を行えと言う課題・発表の研修があった。たぶんその頃の日本の企業で普通に行われていた新入社員研修の定番カリキュラムの一つだったのだろう。
入社当時の研修合宿なのか定かではないが、こういう感じの雰囲気だった。

  グループはなんとなく新入社員通し番号で近かった者達で作られた。意図的ではなかったが結果として席が近かった国立大学出身者で固まったようだった。横浜国大からは後に人事部に配属された藤代幸至、九州大学から来た大路などが居たと思う。同じ大学の藤代は別としても、何故大路を覚えているかと言うと、日本人離れしたそのハーフのような容貌が、あの「アローン・アゲイン」の大ヒットで有名になったギルバート・オサリバンに非常に良く似ていたから。

 そこで、どういうテーマでまとめようか、ブレーンストーミングが始まった。当時の日本においてはメディアの注目を集め続けていた天下のヴァン・ヂャケットだもの、其処の関係者を感心させるには生半可な提案では「フン!お前らこんな程度か?」といわれる事必定・・・。集まった数名は、なんとかVANの人事課をはじめ関係者達をうならせてみたいと思っていた。

 話は少しさかのぼって、あの素早い電報という、超アナログ的伝達方法で内定通知を送ってよこしたヴァン・ヂャケットの事を色々調べてみた。ちなみに我が家にはそれ以降「電報」と言うものは今に至るまで一度も来た事が無い、あれが我が家にとって最後の電報だった。

入る事が決まったとなれば、自分が進む会社の事をきちんと詳しく知っておきたいと思ったのだろう、しかし普通は会社を受ける前にやる事だったろうか?帝国探偵社に居る先輩、会社四季報、これも知り合いが居た矢野経済研究所。ありとあらゆるルートで無償の調査データを調べた。勿論石津謙介社長に関する文献・記事なども調べてみた。何とあの国会図書館へ行ったのもこの事が理由で、生まれて最初だった。三角形で複雑な構造の日比谷図書館にも行った。

しかし驚いた事に、いくら調べてもなかなか企業としてのデータが、きちんと出てこなかった。オンワード樫山やレナウン、三陽商会、ワールドなどはあったがヴァン・ヂャケットと言う名に関するデータはあまり詳しいのが出ていなかった。一方で石津謙介というカテゴリーでは出展文献が雑誌中心に相当数あり、その考え方、提唱している事などを勉強するのはさほど難しい事ではなかった。
当時のVAN社内の様子 会社案内より

で、二日ほど通って調査して思ったのは、「石津謙介社長は前代未聞のユニークさを尊ぶ演出家」という事だった。その背景には常に受け手を意識し、「目論んだ効果を上げるには、どのような方法を採り、いつどのように展開すればよいか・・。」を心得た非常に計算高い演出家だと理解した。いわゆるファッション専門用語にもなったT・P・Oという服装に関する「お約束事=いつ、何処で、どういう状況かを考えて着る物を選ぶ・・」に通ずる事を根本のコンセプトに持っていたのだと思った。
1972年当時のヴァン ヂャケットの主要ブランド 

これらの事前知識を身に付けて研修合宿に臨んでいたので、テーマを絞り込む段階で皆の意見が出揃ったところで初めて自分の暖めていた内容を提案してみた・・・と言いつつも、あくまでその場で頭に浮かんだいい加減なデッチ上げだったのだが・・・。その提案の中味は、何か新しいモノを造って売り出す、何かを仕入れて販売する・・と言う企業っぽいモノではなく、まったく新しい都市型生活者のための「生き方提案」だった。

 自分は東京で生まれて、小学校1年生の1学期だけ東京の小学校に通い、1年生の2学期から北九州の小倉市(今の北九州市)の学校に転校した事はこのブログでも初期の頃に書いた。それ以来4ヶ所の小学校を転々としサーカスの子供のような状況ながら、田舎でしか得られない子供時代の色々な経験をつんで育った。コンクリートの校庭や横丁の路地で育った都会の子供達には無い大自然の教えを身に着けていた。

 そういった背景の中で大学の教育学部の教育実習の時に、中学校の子供達を教えながら、自分の子供にはこういう教育だけでは駄目だと思った事を思い出しながら、考えた新しい将来の生活スタイルの一つがこのアイディアだった。「子供を育てる家は山と川が傍にある田舎に持ち、金曜の夜から月曜の朝までは其処で過ごし、ウイークデイ、月曜の夜から木曜の夜までは会社に近い都心のワンルームマンションで過ごす・・・。」これが週末3晩の濃縮家庭生活の提案だった。

 月曜から木曜までは都心で仕事に専念し、週末3日間は田舎で家庭と子供に徹する・・。」われながら理想のバランスの取れた生き様だと思った。新入社員の同じグループの皆も口々に「なるほどそれは新しいし面白い!」と賛成してくれた。ちょうど世の中的にも愛知県のライオンズホテル名古屋がシングルルームをマンションとして販売を始めた頃で、メディアの間でもワンルームマンションに話題が集まりタイミングもよかった。

 お父さんは仕事に専念し、どんなに残業があろうが家のことを気にせず、ウイークデイはトコトン働いてお金を稼ぐ、自分自身もどんどん仕事をマスターし、人脈を広げる。無駄な満員電車の通勤往復はしないので、それに要する往復3時間はストレッチなどスポーツジムで体を鍛える・・・。もう、絵に描いたような理想の生活パターンだと思った。

 週末3日間に私生活を濃縮する、コンク(濃縮)ジュースのような考え方だったので「スリー・コンク・ライフスタイル」と銘打って提案をした。背の高いハンサムな大路がギルバート・オサリバンに似ていたので、企業名を「ギルバート商会」と名付け社長を大路に決めた。

 発表は皆でパートを決めて行い、会場内でもそれなりの高い評価を得たようだった。別にグループ発表に優劣の表彰は無かったと思うが、VANの関係者や他の新入社員に対して、充分印象付ける事は出来たように思う。
 その後研修合宿の打ち上げで最後に人事に指名された数名が、壇上に並び自己紹介をしたような気がする。その中で4大卒の女性の一人が「デートのお誘いなど個人的なご質問に関しては、後で個別に対応させていただきます・・・」と発言し、会場からピュ-ピュー口笛が鳴ったのを記憶している。数年後、本当にその女性にお誘いをして写真のモデルになってもらった事があった。

VAN AG(小物)のジーンズ生地の傘の撮影 1975年頃 モデルは同期入社の女性

 その後随分経って、我が家でこの「スリー・コンク・ライフスタイル」の話を食卓でした事があった。どう思うかカミさんに聞いたら「有り得ない!」の鋭い一言で終わりだった。