2014年11月8日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #82.」 VAN宣伝部・販売促進課での最初の1ヶ月あたり。

 これら安達さんのサポートとして最初の仕事があったればこそ、北から南まで全国のVANショップの名前を知る事になった。この知識はすぐこの後役立ち、大きな成果を上げる事になるがそれはさて置いて。

 まず、全国の地図を頭に浮かべた。小さな頃から地理が得意だったので、日本全図はもとより各県の位置・形、県庁所在地の場所はフリーハンドで描けた。そこで札幌から那覇まで大型店の名前を暗記した。当時の注目は北海道札幌市。札幌丸井今井、札幌そうご(そごうではない)、札幌三越、札幌東急、札幌松坂屋、五番館などなど、さすが100万人都市になる下地があった頃の札幌は全国でも急成長・話題の商業都市だった。

 青森中三、盛岡川徳、仙台十字屋、仙台三越、山形十字屋など都市名に続いて百貨店の名前を覚えないと覚え切れるものではなかった。福島中合、郡山うすい、川越丸広、金沢名鉄丸越、金沢大和など、それまでに聞いたことがない名前をどんどん覚え込んだ。自分が育った北九州・小倉や熊本県の百貨店になると、懐かしさもあってついつい得意先担当者との電話が長くなってしまった。
1975年当時のVAN得意先リスト 雑誌メンズクラブと共同制作(電話番号無効)

 なんとこの5~6年ほど前に初めて知ったのだが、小倉の附属小学校で同じクラスに居た中山清隆君が、其の頃小倉玉屋のVANコーナーでアルバイトをしていたという。ちょうど彼がお店に出ている時にVANコーナーを訪れた石津謙介社長に直訴して、VANに入社する事を内定してもらったというではないか。しかし、運命は残酷!天は彼に味方しなかった。実家が北九州でも中堅どころの企業を経営していたため、跡継ぎである彼は泣く泣くVANへの入社を諦めたという事だった。もし彼が入っていたら、小学校のクラスメートが同僚になるという、ちょっとした新聞ネタになったろうに。彼は今では北九州門司区と栃木県真岡に社屋を持つ立派な中堅企業の社長さんだ。

 こうした大手の百貨店名を覚える一方で、各都道府県の得意先も覚えて行った。しかしどんなに頑張っても、先輩の安達さんの記憶レベルにはとうとう最後まで達する事ができなかった。自分の記憶力の悪さを此の時ほど恨めしく感じた事はない。安達さんの記憶力は信じられないほどの細かさと正確さだろうと思う。

 たとえば伊豆の下田に「ウスイ四郎商店」という得意先があった。キャンペーン・グッズもポスターは不要で大量のVANの紙袋とステッカー、パンフの類だけしか発送した事がなかった。要はそれしか販促物の注文が無かったのだが、どういうお店かと訊くと、「地方のよろずやさんだな、何でも売っているお店」という事だった。で、VANのどんな商品を扱っているのか訊いたら、ソックスだけだという。
VANのソックスだけ扱っていても、VANの紙袋はいくらでも注文できるから、取り寄せていたものと思われる。つまり、軒先に麦藁帽子や草鞋を下げて日用品を売っているよろず屋さんでも、お店でVANに関係ないモノでも沢山買うと、当時若者に大人気のVANの紙袋に入れてくれる訳だ。
当時、これ以上の販売促進策は無かったろうと思う、なんという頭の良い経営者だろう。

しかしあんまりだよな?と思っていたら、安達さんが「他の商品ももう少し仕入れて頂かないと販促物ばかりお分けし難い」と電話でこのお店の店長と話しているのを横で聞いた事があった。2ヶ月ほどして、安達さんがニヤッとこちらを見て言った、「新庄!下田のウスイ四郎商店、商品の扱いが増えたらしいぞ。」「どのくらい注文があったの?」と訊くと返った答えがこうだった。「下着だよ、ブリーフとTシャツ1箱づつ!」
販売促進課きってのダンディ・安達先輩 VAN社員はハンサム揃いだった。

 勿論、新宿のイセヤだとか、横浜のイソベ、京都のイノハナ、VAN高崎、大阪のナカガワといった日本のメンズ・ファッションの老舗、つまり情報発信ポイントとして、ヴァン・ヂャケット直営店と肩を並べて、あるいはそれ以上のプロショップとして大きな影響力を持つお店も多かった。これらのお店に電話をする時には特に気を使い、毎回何かを得てやろうととても真剣だった。特に関西のお店は電話口の向こうからプライドと共に、其のお店の顧客の注文・好みを完全に把握しているといった自信といったようなものが感じられた。これを実際に確認するのは、その後出張で関西のお店に行って色々話を聞いた時の事だった。此の話は又後日。

このように、全国の小売店、大型店などの存在を把握し販促ツールを配送する事で、まずは基本中の基本、得意先の把握を行うのが、VANに入っての最初の仕事だった。この辺りはヴァン・ヂャケット歴代最高の営業マン・販売員だった1973年同期入社・横田哲男氏のそれとはいささか異なっていたようだ。第一、入社した段階ではこの名物男・横田哲男氏との面識は殆ど無かったと言って良い。
しかし、世の中は狭いものだ。横浜国大時代、体育会バスケットボール女子部のスター選手の従兄弟に佐野君という武道・拳法の全国レベルの達人が居て、横国在学中から知っていたのだが、其の彼がVANの営業部に同期入社したのだった。其の佐野君がある日連れてきたのがこの横田哲男氏・・・「氏」というより自分にとっては「師」だった。
横田哲男氏とはこの後、現在に至るまで長い付き合いになるのだった。

 まあ彼に何かを喋らせると止まらない。特にトラッドだとか、アイビーの専門用語の語源などをうっかり尋ねようものなら、大変な事になってしまう。「喋るトラッド辞典」「壊れたIVYレコーダー」などと言われたのもこの頃の話だ。彼がトラッドに関して一言口を開くとVAN社内であっても、たとえ池袋西武のVANコーナー店頭であっても店員・お客含めて其の座はシーンとなってしまう。彼の脅しは非常に効果があってドスが効いていた。其の決め台詞は「お話始めちゃうぞ!」だった。
サイクリストとしても一流だった横田氏のユーモアは誰にも真似が出来なかった。

彼の凄いところは、単なるトラッド・アイビー知識人という事だけではなく、質実剛健・正義の味方、曲がった事は許さない、それで居て女性にはめっぽう弱いという、60年代の正義のヒーロー、スーパーマン、グッと砕けて身近だと「寅さん」のような存在で、目立ちたがり屋・気取り屋・カッコマン(古いね!)ばかりが多いヴァン・ヂャケット社内においては、非常に珍しい絶滅危惧種だった。
その代わり、石津謙介社長にはものすごく可愛がられた社員として、歴代BEST3に入るのではないだろうか?
ヴァン・ヂャケットの精神に関しては、石津社長と同等に頑なモノを持っていた横田氏。

この横田氏の紹介・エピソード話は本一冊にもなるので、詳細は先送りするとして、この頃一番印象に残ったある事柄を述べたい。いつもの通りキャンペーンの販促ツールの発送リストを整備している時に、安達先輩が「シンジョー、販促倉庫に行ってノベルティとプレミアムの一部と紙袋を取ってきて!」と販促課の鍵の束を放ってよこした。当時は青山三丁目の角を国立競技場へ左折し本社別館・商品管理部の建物のほうへ行くと販売促進課の倉庫が在った。

時々丸正運輸の石川さんが紙袋や販促ツールの本社取り置き分を持ってくる都度、安達さんが入庫出庫確認をする場所だった。自分では今まで行った事がなかったので、非常にウキウキした気分で倉庫に向かった。安達さんの「自分で欲しいのがあったら、少しなら持って来て良いから・・・」が凄く後押しをしてくれたのも確かだった。それまで生きてきて「ヤッター!」と小躍りする事は幾度か有ったが、此の時ほどの感動・感激は無かった。あの高校生時代にポスターカラーでレタリングして描いた、VANのロゴの紙袋などの本物が眠っている宣伝・販促倉庫に入れるのだ!なおかつ、先輩から「少しなら持って帰って良いよ」とのお墨付きまで貰っているのだ・・・。こんな幸せって有るだろうか?
倉庫に眠っていた宝の数々のホンの一部。

震える手で鍵を開け、ドアを開けて倉庫の電気を点けた途端思った、「子供の頃本で読んだ海賊の宝物の洞窟って本当にあるんだ!」