2015年3月14日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #098」 ヴァン ヂャケットの社内でのエピソード、その8。「内見会といえば・・・」

 内見会といえば当時どのアパレル・メーカーも自社ビルの展示スペースで人体(=マネキン人形)に来シーズンの試作品を着せてディスプレイし注文を取る方式を採用していて、何処もが似たり寄ったりの感じであった。これはオンワード樫山やワールド、レナウン等の大手でも一緒だった。
しかし、常に新しい方向性を模索していたヴァン ヂャケット販促部では、当時原宿の住宅街に在ったDCブランドメーカー、たとえばアルファ・キュービックのメンバー等とも今後の展示会のあり方などよく相談したものだった。東京ヒルトンホテルでの大内見会の後、札幌プリンスホテルでの内見会、福岡の西鉄グランドホテルでの内見会などを経験した。生まれて初めて足を踏み入れた札幌では施工が終了して夜販売促進部全員ですすき野に繰り出し、ストリップ劇場地球座とかいう所に入ったが、筆者などは疲れ切っていて最前列でいびきをかいて寝てしまい、踊り子さんにマジで怒られた事もあった。

そういう話しは山とあるが、今回はそうではなく内見会の演出方法に関して、ヴァン ヂャケットが当時相当新しい事を試みていたのを紹介しようと思う。展示会・内見会といえば営業担当が来場された取引先にへばりついて注文を取るのが本来のスタイルだ。その注文数を内見会後集計して生産ラインに生産数の調整と納期の確保を行うのが普通の一般的・常識的モノ造りの方法だ。しかし、巷のアパレル・メーカーと違ってヴァン ヂャケットはまったく異次元のモノ造り方法を行っていた。簡単に言うと、内見会開催より遥か前に10ヵ月後に販売する商品は、何を幾つ造るか既に決まっていたのだ。同時に生産の上限数も決まっていたようだ。だから得意先からの注文数がヴァン ヂャケットのマーケティングプラン(これが勘を頼りに結構いい加減だった)以上に増えても、少なくても対応等できなかったのだ。間違って内見会などで思惑がはずれ全然不人気の商品アイテムも原反発注(元になる生地)・生産ライン押さえ(縫製工場押さえ)をキャンセルするには違約金を払わねばならないなどの理不尽な生産方法を採っていた様だ。つまり常識的に言えば順番が逆な事を平気で悪しき慣例としてやっていた様なのだ。
筆者がまだヴァン ヂャケット入社前の時代の内見会報告社内報 VANSITEより

これは元来、ヴァン ヂャケットがVAN Kentといった軽い付和雷同型の流行と言うものを否定したトラッド・アイビー路線の商品中心で拡大した企業だけに、元々流行による大きな変化が在ってはいけないという半ば宗教がかった商品群で構成されていたからだろうと思われる。
ところが、時代の流れと共に商品が売れていくと商品アイテム数、色のバリエーションが従来の領域だけでは得意先の要望やターゲットである若者達のニーズに答えられ難くなり、どんどん野鳥の分類ではないが亜種が増えていったのではないだろうかと想像する。ちょうどタータンチェックの柄が本来の本家だと色数やパターンが単純なのに比べ分家、分家で血筋が分かれるごとに色やパターンが複雑になるがごとく・・・。
そうなると、当然ワンパターンで今までどおりの生産スケジュール・システムでは市場のニーズに答えられなくなったのではないかと推察している。このあたりは当時ヴァン ヂャケットの・企画ラインに居た方でなければ詳細は判らない。要はトラッド・アイビー路線のファンがマスで増加する事によりマーケティングの変化と共にマーチャンダイジングも変化せざるを得なくなったのではないだろうか?
内見展示会直前、社内報で全社員に内見会での新商品ライン最低限の知識を認識させた。

そういう時代背景の中、販売促進部では内見会において、得意先から如何にヴァン ヂャケットの筋書き通りの注文を取れるようにするか、誘導する方策を考えねばならなかった。これは当時まだペイペイの販促部員だった末端の自分には全体像は見えず、ただ効果的な具体策を実現する事に没頭していたので、今に至ってこそ思うことなのだが・・・。
営業部門に向かって、「それは出来ません!」とだけは絶対に言わないのが販促部の理念だ・・・と常日頃から言っていた軽部キャップは当時相当なジレンマの中、部下に色々注文をつけていたのだろう。ストレスは半端なものではなかったと推察する。

其処で販売促進部が考え出したのが、製作部門がシーズン前に作る型紙(企画パターン図)と生地見本を貼り付けた原始的な製品メニュー(=スワッチと呼ぶ。間違ってもシュワッチ!・・・ではない、念のため)をヒントにブランド毎の来期のテーマ、コンセプトをプレゼンテーション・ボードに表して営業部員と共に得意先にセールスする方法だった。表向きはこれらを「コンセプト・ボード」内々には「紙芝居」と読んでいた。
スワッチを視ながら受注活動・数出しを行う営業部員。

内容は、各ブランド別にそのブランド内の商品を幾つかのテーマに分け、そのテーマごとのコンセプトを解説した。例えば、来期は何故グレーの色をフィーチャー(重点的に押す)するのか、何故1950年代のアメリカがモチーフなのか??(=たまたま映画「スティング」や「華麗なるギャッビー」など40年代50年代モノの映画が流行っていたが為)などなど得意先のバイヤーが判りやすいプレゼンテーションを行うツールとしてこのコンセプト・ボードは営業部門から非常に珍重された。ボードの最後のほうにはその商品を展示する売り場のディスプレイ例などまであったものだから、得意先の売り場担当者は「自分の売り場がこんな風になるのか!!」と非常に喜んだと言う話を幾つも聞かされた。
今は既に「死語」に成ってしまったシティ・ボーイズと言う言葉はこれを期に流行るエポック的言葉だった。このコンセプトボード(=通称紙芝居)の製作は中味が企業秘密だから決して外注しなかった。

今のBEAMSその他の店舗の原型は既にこの頃ヴァン ヂャケット販促部に存在していた。

映画「ビッグ・ウェンズデー1978年」「バック・トゥ・ザ・フューチャー1985年」もまだこの世に無かった時代に、既に時代を先取りしていたヴァン ヂャケットの先取り感覚は、やはり会社そのものが群を抜いて新し物好き集団だった事を表している。

しかし、このパース画に見られるように、ニュー・スポーツショップの客が皆スーツ姿の男性だったりして、まだまだちぐはぐな感覚の様だ。まだ市場にはこの手の消費者達があまり育っていないと言うファッション界の変革期・混沌期だったのだろう。いわゆるアメリカ東海岸の生活観から西海岸の生活観へ時代が大きく変わろうとしていた時期なのだろう。

店頭のディスプレイ用小物の提案までしている。このようなアパレルメーカーは他には無い。

 ただこの方法には幾つかの弊害も生まれてしまった。まずそれまでセールストークを一生懸命自分で情報を集めて考えてきた優秀な営業担当が「内見会の販促部のコンセプト・ボードがあるから、もう一人で苦労しなくて済むな」と勉強・努力をしなくなってしまったこと。同時に得意先が「ヴァンさん!あのプレゼンボードのようにうちの売り場飾ってよね?」とプレゼンボードの実現を要求してくるケースが出てきたのだ。勿論費用はヴァン ヂャケット持ちだ。

この紙芝居(=コンセプト・ボード)造りは初めて具体的に大学で学んだ写真・デザインに関するセンス・知識が直接役立つと言う意味では非常に面白く身を入れて出来る仕事だった。仕事と言う概念より、まさに「やりたくてしょうがない事=趣味」のレベルの内容だった。だから徹夜こそしないが連日夜遅くまで販促部の部屋に居残って残業を楽しむ毎日だった。時には夜遅く仲の良い営業部員がふらっと現れたが、皆得意先と一杯やっての訪問だったのでまじめに販促部が深夜まで活動しているのを見て相当驚いたようだった。
この頃の筆者のデスク周り、机の上のカメラが仕事上大事な道具であった事を示している。横のデッキチェアは社外の印刷屋さんや写真屋フォトスタジオの人々と長時間打ち合わせをする為必須だった。

実にお世話になったインスタントレタリング・レタラセット。


当然営業部員は翌日356営業部のフロアで、販促部が夜中まで内見会用の紙芝居を一生懸命造っている事を吹聴するので、噂はあっという間に広がり営業部と販促部の信頼感は今まで以上に増したのは間違いないところだった。