2015年4月12日日曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #105.」 ヴァン ヂャケットの社内エピソード、入社3年目に海外出張!」

 アメリカ大陸を上空から見下ろしていると物の大きさがトンと判らない。自分が今までに見た西部劇等の背景を思い出しながら砂漠にサボテンや樹木が点在する風景とダブらせてはみたものの、ニューメキシコやシェーンの舞台であるワイオミング辺りとは違うカンザスやミズーリ辺りの風景は結構緑に覆われていてイメージが異なっていた。

 最初に地上で夜を迎えたのはセントルイス(=ミズーリ)だった。其の当時、東京青山のヴァン ヂャケット社員の間ではウエスタン・スタイルをどこかにアレンジして着る事が流行っていて、特にウエスタン切り替えヨークが付きスナップボタンのウエスタンシャツを好んで着て居た。中には横浜の元町裏にあるカスタムメイドのシャツ屋さんに自分でデザインして生地を持ち込んで、世界にたった一着のウエスタンシャツを造ってもらうのがブームだった。勿論青山の会社でそれを着て「えっ?何処のブランド?インポート物?」と訊かれるのを無上の悦びとしていた節が在る。何を隠そうこの筆者ですら3着も其のシャツ屋さんでオリジナルを造って貰ったのだった。
なかなか市販されていないタイプをオリジナルで造っていた。

 そういう背景でセントルイスに着いたものだから、我が目の中はウエスタン物で一杯になってしまった。早速若林Headの案内で大きなウエスタンショップに行き、1時間の間にウエスタンシャツ、ウエスタンベルト、ウエスタンブーツ、何と更にはテンガロンハットまで買ってしまった。このテンガロンハットはフェルトで出来ていて購入者の頭の形に合わせてツバの角度その他を調整しスティームでシューッとやって整型するのが当たりまえだった。
 ところが基本的にモンゴロイドの日本男児とアングロサンクソンの頭蓋骨の形は全然違うバランスで出来ていた。大元は恐竜だったり猿だったりするのだろうが、何処か発達の途中で上から見て縦長のアングロサンクソンとほぼ真丸のアジア系頭蓋骨に分かれてしまったのだった。

 何を言いたいかと言うと、テンガロンハットは10ガロンも水が入ると言う意味の日除けの帽子が其の本来の意味で、カウボーイが馬に乗りながら牛の群れを炎天下砂漠エリアを進む時に被るものだから、少しくらいの強い風くらいでは脱げないようになっている。前のほうから深々と被り、頭の後ろのツバをキュッと下げると頭蓋骨にピッタリと嵌まる様になっている。此れで脱げない訳だ。ところが東洋人種は頭蓋骨が真丸だから同じことを行っても前後に指が一本づつ入ってしまうほどの隙間が出来てしまう。はっきり言ってとてもカッコ悪い。だから日本のウエスタンバンドが一生懸命雰囲気を出そうとしてテンガロンハットを被りながら演奏していても、イマイチしっくり来ないのはこの辺りが原因なのだ。
セントルイスのウエスタン・ショップはお土産屋と言うより日用雑貨品屋だった。

 で、まあお土産として飾り物にテンガロンハットはまだ良いとして、ウエスタンブーツは普段履く為に絶対に本場で購入したかった。此れだけは譲れなかった。青山の外苑東通り沿いに3~4坪の小さなベイリー・ストックマンというウエスタン専門店が在ったが、売っている物が高くていつも見ているだけだった。せっかく本場に来ているのだから良いモノを買って、帰ったらこのお店の前で見せびらかせてやろうと思い、熱心にブーツを選んだ。若林Headも付き切りでアドバイスしてくれた。

 しかし、トニー・ラマや有名なブーツブランドの殆どは筆者の足には合わなかった。足のサイズは8ハーフでちょうど良いのだ。しかしおしゃれなウエスタンブーツはどれも足は入ってもふくらはぎの上までブーツを引っ張り上げられないのだ。要は永年バレーボールやサッカーで鍛えた我が足は、異常とも思えるほどふくらはぎに筋肉が付いてしまい、ウエスタンブーツの類は入らなくなっていたのだった。しょうがない、入るのは只一種類農夫がが履く太目の何の模様も無い皮製のブーツだけだった。

 この最初のセントルイスではホテルには泊まらず、若林さんの知り合いでアメリカでビジネスをされている成田さんと言う方のお宅にご厄介になったのだが、時差ぼけと疲れでアッと言う間に勝手に横になったBEDで翌朝まで爆睡してしまい、後々まで随分言われてしまった。
 そうしてそのまま翌日セントルイス在住の成田さん(何とその8年後に転職する博報堂の後の社長・成田さんのお兄さん!)と、やはり米国在住中の若林Headの弟さんと4名でアーカンソー州のアミューズメントパーク・Silver Dollar Cityへ車でフリーウェイを走って行ったのだ。勿論格好は前日購入したばかりのウエスタンスタイルだったが、もう完全に地元の奴らに馬鹿にされ(アタリマエダ!)「お前、拳銃は忘れたのか?」などと、からかわれっぱなしだった。いわば浅草辺りで中途半端に着物を着た外人達を可笑しい奴らと思うのと一緒だったのだろう。
アメリカど田舎のウエスタン・アミューズメント・パークSilver Dollar City

真ん中が筆者。この格好で堂々とアメリカ中西部を闊歩できたのも若さゆえか?

 このドライブでアメリカのフリーウェーがどういう仕組みになっているか学んだ。アメリカのフリーウェーは左右の車道が外側に向かって傾斜しており、間違って居眠り運転しても外へ外へと車がずれて行くようになっている。なおかつ一番外側は砂利道で其のゾーンに入った瞬間に眼が覚め、間違ってスピン等しても何かに激突したりはしない様になっていた。勿論片側3斜線もある幹線道路だけだろうとは思うが・・・。
 同時に昼間でも車のライトは点けっ放しで走るようになっていた。10km先まで一本道で遠くに山並みが見えるような景色を何度も走った。其の風景こそがアメリカ本来の姿だと知ったもの行ってこそ判る事だった。
アメリカでは中西部に行けばこのような一本道は何処にでもあるようだ。 

 カーラジオのスイッチを入れれば全米ヒットパレードをやっているとばかり思っていたら、何と何処を回しても「♪チーチキチーチキ♪」のフィドロ(=バイオリンの事)を中心としたカントリー&ウェスタン・ミュージックばかりだった。何故かと訊いたらロックやポップスのヒット曲などは、東海岸や西海岸エリアと一部シカゴエリアだけでしか聴けないという事だった。その後FM放送やインターネット・ラジオの発達で今は何処でも色々な音楽が流れているそうだ。
 当時のAMラジオでは中西部の局は全てWで始まる放送局、ハワイなどはKで始まるといった感じで決まっていた。だからカントリーソングで有名なグランド・オル・オープリーなどはWSMと言う放送局が中継していたし、ハワイで有名なDJ音楽局はKIKI(ケイアイケイアイ)だった。
ナッシュビルのカントリーソングAMラジオ局’WSM

ハワイ・ホノルルのヒット曲AMラジオ局KIKI

 此処で成田さんや若林さんの弟さんとの夕食後に、近所のアフリカ系の友人が来ていろいろ話をしているのを横で聴いていた事があった。其の中で1つ脳みそにこびりついている話が在る。忘れられない。それはどういう音楽が好きかと言う話になって誰かが「ソウルミュージックは良いよなー」と言った途端、其のアフリカ系の友人の目付きがマジになって速射砲のように喋りだした。勿論英語だし筆者は聴き取れない。
TVで深夜にソウル・トレインが始まっていた。東京のディスコではソウルの曲が流行った。

後で若林Headに訊いたら「SOULミュージックは黒人の虐げられた歴史と思いが入っている。どんなに明るいテンポでヒットしても、皮膚が実際に黒い人間にしか判ってたまるか!」という非常に本気の話だったようだ。ビートルズも歌っている「Baby it's you,Please Mr.postman,」などのリズム・アンド・ブルースと呼ばれるジャンルの曲もその後はソウルジャンルに入れ込まれたので、何か複雑な感じでこの話しを訊いたものだった。