2015年6月13日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 番外編」自費出版本の反響レポート。

 まだ2か月は経っていないが、4月20日ごろ「団塊世代のヤマセミ狂い外伝」第1版の印刷が上がり、小・中・高・大学時代の恩師・クラスメート・同期生・同窓生のそれぞれ交流のある一部の方々、それに加え日頃交流が盛んで筆者のブログも見ていただいている方中心・多数の方々に贈らせて頂いた。

 翌日から即Eメール、SNS系、或いは電話や郵便で着確認を下さった方、暫くしてお祝いを贈ってくださった方・・反響は思いのほか強く、書いて良かった、自費出版して良かった!と思ったことだった。一方で決して多くは無いが送っても無しのつぶてで未だに無反応の人も居る。


 一番多い反響が、書いてある内容の元になっている記憶力について驚いたというもの。「自分の中学生時代、高校生時代と比べても、あそこまで色々覚えちゃいない。」しかし、これは決して造った話ではない事は読んでみると読んだ人達にもすぐ判ると言ってくれている。読みながらその当時が脳裏に戻ってきて「そうだった!そうだそうだ。」となるらしい。
 その瞬間、同じ空の下で自分はどうしていた、こうしていた・・・思いだした。」と言う報告を沢山もらったのでホッと安心している。読んでくれた人々がそれぞれの時期の記憶のモノサシにしてくれているのが非常に嬉しかった。
 一方で葉山森戸でのウインドサーフィン時代から30年来の友人染谷氏のアイディアで、ビニールでラッピングした装丁に大喜びしてくれた御仁も沢山いた。あの当時ビニ本に何度お世話になったか(笑)という、洒落、悪戯の判るいつまでも悪ガキの友人達だ。
本物のヤマセミの郵便切手(既に販売終了)を貼った演出(初版本の一部のみ)も悦ばれた。

 筆者は訳ありで幼稚園に3日しか通っていないので、幼稚園に関する記録は殆ど無いが、4箇所の小学校、中学校2箇所に関しては写真(アルバムではなくバラで)・通知表・学校で配られた印刷物、試験の答案などその当時を偲ばせるものが、全てそれぞれの時代の段ボール箱(タイムカプセルと呼んでいる)の中に入っているから、ブログにする実証物が豊富だという事に尽きる。厳しい母の躾の賜物だろう。

 社会人になって以降(続編ブログに掲載中)もヴァン ヂャケット、トリンプ(日本IFGトリンプ)、中央宣興、博報堂、それぞれの時代の関係書類、写真、その他資料の類を山ほどダンボールその他の収納箱に納めてあるので、文章化するにはそう難しいことではない。ブログを主宰し始めて毎回アップする為に、紙焼き写真、ネガ・ポジ画像、その他自分が関わった掲載雑誌等のデジタル画像も大量にパソコンのハードディスクに入っているので、推察で話を造ったり嘘をつかなくてすむ。日付や時代が不確かな事は全てネットで確認する。 

 しかし記憶と言うモノは一つ何かエピソードを想い出すと、イモヅル式に色々後から後から出てくるものだと思う。少なくとも筆者の場合は記憶の脳細胞から勝手にいろいろ出てくるので後になって、あれも入れればよかった、こちらのほうが重要だし面白かったのにと悔やむ事が多い。思いだしたらその場で一行でよいから文字にしておく事が重要だ。

 無理に話を面白くしようとしなくても、ドジの連続だった筆者の生い立ち、事実を述べればそれだけで充分済む話で、過剰な演出や何処かの小説の真似をしなくても良いのは楽だった。元々文才等まったく無い筆者なので事実の可笑しさだけで充分皆さん喜んでくれたようだ。

  中には、九州八代時代の同窓生と言うか、知り合いの輪の中で、この本の面白さを仲間に知らせたいと言ってくださる方や、なんと明治7年設立の歴史在る八代市立太田郷小学校の関係者からは、ブログに載っている昔の木造校舎の画像その他を是非提供して欲しいとまで連絡を頂いた。

 或いは何処かの出版社から値段を付けて販売しろ!と威勢の良い事を言ってくださる御仁も居るが「販売」するつもりはまったく無い。
 理由は簡単で、基本的なコンセプトは今までのヤマセミの写真集同様、気に入った人にプレゼントする事で、何かの折に筆者の事を想い出して欲しいと「遺言状」代わりだと思っているから。第一、本来は自分の子供達に父親としてきちんとその生い立ちを伝えておきたかったのがすべての原点なのだから、売るなどという発想は全然ない。更に値段を付けて売ると成ると、売れたか売れないか毎日気になるのも嫌なのだ。贈る、差し上げる・・というのは相手をこちらで選べる事だ、嫌な奴には上げないで済む。此れは造る側最大の権利だ。だから初回のオンデマンド印刷では30冊も造っていない。

 一方で中味同様、外側の表紙周りのデザインに対しての反応も大きかった。本来ブログでは数多くの写真やスキャンした資料を掲載したが、アナログの縦書きの本になるとそういった写真はかえって邪魔になる事が多い。これは意外だった。縦書きの本というものは読み手がいろいろ頭の中でその場面場面を想像しながら読み進むように出来ているらしい。かえって写真などの現物資料は邪魔なのだ。

 だから、当時の写真・資料などを読んでいる最中には邪魔にならないように、表紙周りにそれらの一部を証拠品としてコラージュ的に羅列させた。これが多くの人にその意味を判って頂けて大変喜ばれた。同時に話の裏付けにもなって「シンジョーは嘘を言っていない」という証にもなってくれた。発想をまとめてくれたパソコンの先生・染谷氏に感謝したい。
表紙はわざと実際の資料や写真で覆い尽くしてみた。巻帯も冗談で付けてみた。

 ごくまれにプロのデザイナー上がりの先輩からは「中身に比べて外側は酷い代物だ!」という鋭い意見も頂いたが「売るための本、デザイン的な良さ」を無視してでも当時の物証で外側を覆いたかったのだ。正直もっと良い別の方法が有ればそうしたかったが思い浮かばなかった。しかし中身に関しては一番しっかりとした感想を頂いた。さすが我が元上司!幾つになっても全てはお見通しって感じだ。
通信簿は一応公文書なのだろうが、もう時効だろう。

 そんな中、実は捗捗しくない反響も幾つか洩れ聞こえてきた。成績が良くて、秀才タイプの同級生等からのあまり良くない反応がごく少数あるらしいというのだ。直接は筆者に何も言ってこないが、「自叙伝を書いて皆に自慢したいのか?目立ちたいのか?優越感を感じたいのか?」と言った反応らしい。その殆どが妬み嫉み、悔しさに裏打ちされたような否定的反応なのだそうだ。此れを聴いて非常に悲しくなると共に「自分でも同じ様に書けば良いではないか?」と思ったが、逆に書けないからこその裏返し反応だそうだ。
 同じ土俵で勝負せずに、陰から批判だけするというのは自分の主義に反する。此処にも団塊世代の「負けず嫌い、競争心丸出し」の悪しき性格が出ているのだと苦笑いせずにはいられなかった。同時にもう少しよく考えて、送る相手を吟味すべきだったとも反省した。次回続編は是非そうしよう。

 しかし、本という物、出版してしまってからあれこれ「この話を入れ忘れた、あの話を差し替えればよかった・・・。」と幾度も思うものだという事も知った。
 同時に昔の記憶と言うものが如何にいい加減なものかも知らされた。一番多かったのが昔の色々なシーンの映像・画像記憶が左右が逆転していた事だった。映画のシーン、雑誌上の写真、建物の場所などなど。此れはあくまで筆者個人的なモノかも知れないが・・・。

 最近殆ど自宅近辺ではしなくなった車の運転だが、左右逆転の勘違いだけはまだ起きていないようだ。「団塊世代のヤマセミ狂い外伝」ブログ上では1か月ほどお休みをいただいたが、明日からまた週末再開したいと思う。これからもよろしくお願いしたい