2015年8月8日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #123.」 ヴァン ヂャケット倒産後 まずは職探し。

 完全にヴァン ヂャケットを退職した時点で筆者はまだ車の免許も無い上、小さな子供を含む家族を抱えて安定した収入が必要な環境下に在った。とりあえずヴァン ヂャケットの経験を生かしてファッション系のアパレル企業に進むのが一番ストレスが無いと判断し、新聞の求人広告を探した。 その頃我が家は今と異なって朝日新聞を取っていたので、朝日求人広告欄を探し始めた。
 当時は高度成長期のさなか、求人欄だけで2見開き、つまり4面全部が埋まるほどだった。要は今では考えられない人手不足の時代だったのだ。その反面、まだまだリクルート・就職情報等の職探しの専門雑誌は世の中に目立って存在せず、新聞以外の求人情報メディアは在ってもまだ目に付かない時代だった。

高度成長時代の新聞求人広告は見開き2面あるのが普通だった。

 その朝日新聞の求人広告を見て、モノの10分も経たないうちに、日本IFGトリンプと言う会社が宣伝課長を募集しているのに眼が止まった。調べてみたら外資で世界一の女性の下着メーカーだった。そこで考えた、「今まで男性のファッション関係の業界ナンバーワンの会社に居たのだから、センス的にヴァン ヂャケットに数段劣るメンズアパレルの会社に、いまさら入り直したところで自分にとっては何の進展も無い!いっその事、次は女性ジャンルも有りかな?
 但し女性と男性で一番違うのが下着・補正着の特殊性だ。そうだ!まず基本の下着メーカーにとりあえず応募して、女性ファッション界の勉強をしよう・・・。」

 最終的に女性ファッション・アパレルの世界に進むのであれば、この下着メーカー会社がその業界の入口の様な気がしたのだった。浜松町から羽田空港行きのモノレールに乗って
東京流通センター駅で降り、隣接したビルに其処の本社が在った。
 物流倉庫と本社が直結している、外国に良く在る無駄の無い企業のスタイルも少し気に入った。トリンプと言う会社はまだ東西にドイツが分かれていた冷戦時代、西ドイツが本社(当時)の世界最大下着メーカーだった。(※現在トリンプインターナショナルは本社スイス。)


ロゴは時代と共に変化している。このロゴも1978年当時とは少し違っている。
 
 当時日本の女性下着メーカーでは京都本社のワコールがダントツの売り上げ1位で、トリンプは業界2位だった。しかし業界のシェアバランス(占有率)から言えば1位が在って2位、3位が無く4位にトリンプと言うような感じだった。

 予め郵送で履歴書を送り、書類審査を経て指定された日時にトリンプへ面接に行った。面接官はマーケティング本部長で、髪型も風貌も作曲家の黛敏郎氏に非常に良く似ていた。 彼は暫く履歴書を見て、直ぐにこう言った。「そうかVANさんにいたのか?大変だったねー」その後こういう質問をされた。ニコニコしながら「3分間で貴方の自己PRをしてみてください。」
浜松町からモノレールで通うTRC。まだ天王洲アイル駅は無かった。

 そこで、VANで何をしてきたか等は一切語らず、「今後トリンプの製品をどうやったら販売員が売りやすく出来るか、あらゆる方法でバックアップします。ターゲットに対してどのようなアプローチ方法が一番効果的か、一番費用対効果が高いか判断し実践します。宣伝・販促・売り場・店舗デザイン施工に至るまでアパレル業界での人脈と経験を生かせます。」言ったのはこれだけだった。

 マーケティング本部長の決断は早かった。「よし判った、採用します。君に決めました!」それこそ「えっ?ウソ!そんなに簡単に決めて良いの?」が正直なその時の気持ちだった。

 本部長が筆者に決めたのはこういう理由だった。まず面接を既にこの10日間で30名ほどやってきて、もういい加減疲れていたそうだ。それにVANの大ファンだったとの事。 決め手は今までヴァン ヂャケットでどういう肩書きで、どんな成果を挙げてきたか、部下は何名で給料は幾らで・・など過去の自己PR話を一言も言わず、このトリンプに入って自分が何を出来るか、具体的に会社に何を貢献できるか話をしたのがまさに決め手だったそうだ。これは採用が決まった後に人事担当者から聞かされた事だった。

 そうして、マーケティング本部長はこう続けた。「では、色々準備等あるでしょうが、いつから出社可能ですか?普通は1週間後か10日後ですが・・・。」
 デジャ・ブ・・・ではないが、初めて石津謙介社長に逢った時の事を想い出してこう言った。「職を求めてきたのですから、働けるものなら今日の午後から働かせて頂きます。」そうしたら、意外な言葉が返ってきたので驚いてしまった!本部長はニコニコしながら「そう言うだろうと思いましたよ。ハハハハハ!」だと。この本部長、只者ではないな・・・と思った。

 こうして、ヴァン ヂャケット倒産後、事実上空白の無駄な日は一日もなく、次の職場に通うことになったのだった。しかし、この外資系の会社での話はどう逆立ちしてもヴァン ヂャケット時代ほどの波乱万丈の面白話は無く、記憶に残るのもほんの幾つかしかない。次回以降、これらの話にすこし触れてみたいと思う。