2015年8月16日日曜日

ウインドサーフィン文化の一時代を支えたフォトグラファーが亡くなった。 Japanese famous out-door sports photographer passed away.

  世界のウインドサーフィン文化の一時代を支えた日本のフォトグラファー滝口保氏が亡くなった。

 日本のウインドサーフィンは1980年頃から普及を始め2008年頃をピークに衰退し始めている。 一時期は鎌倉由比ガ浜上空からビーチ際を見ると海岸一杯を埋め尽くすウインドサーフィンのセイルで壮観だった事もある。
 1980年以前はスポーツとしてもメディアから認知されておらず、単なる目新しいスポーツが入ってきたぞ・・・程度の認識しかなかった。競技人口そのものもまだ4~500人程度しか居らず、この頃の大会で全日本チャンピオンになっても草野球のヒーロー程度しかなかった。つまりごくごく限られた趣味人種のカテゴリーでしかなかった時代だ。当時のレジャー白書などの公文書にも項目・種目の記述すらない時代だった。
1980年沖縄の海で仕事で大会運営中、初めてウインドサーフィンを教わった筆者。

 それが1981年沖縄名護市で世界選手権大会が開かれ、東京キー局のテレビ朝日が1時間特別番組として全国ネット放送した。それ以来、画像的にきれいでスピード感溢れるニュースポーツとして、一気に普及し「憧れのスポーツ」に急成長したのだ。
 世界各地で急に増えた大会はこぞって報道され、メディアをにぎわせた。ちょうど仕事上ハワイでのウインド大会運営のためマウイ島にいた時、夕方の全米ネット・テレビ番組で「本日の全米ナンバーワン=ヒーロー・アスリート!」と言うコーナーに、その日の自分達の大会で優勝したロビーナッシュが選出され、大いに彼を囲んで祝った事があった。

 日本でメディアに登場してほんの4~5年で1984年ロサンゼルス・オリンピックのセーリング部門の一つとして種目に成った。これほど単期間でオリンピック種目になるスピードは、長野オリンピックで急遽種目採用されたスノーボードの発展と何処か似ている。この普及の急激さがスポーツ用品業界の活性化を生んだと言う点でも、この2つのスポーツは非常に良く似ている。

 オリンピック種目に採用されるか否かは、そのスポーツ種目の発展により用品・施設関連の産業が世界的に発展し儲かり、IOC(=ローザンヌのオリンピック組織委員会)に上納金など何らかの金銭的メリットが発生するか否かで決まる・・・と言われて居る事は周知の事実だ。これは実際にローザンヌのオリンピック博物館に行けば良く判る。

 ただ、ウインドサーフィンというスポーツは仲間ほか知り合いから「カッコいいなー!」と言ってもらえるまでに、吹く風の条件やバランス修練に必要な個人的素質の差により、他の種目に比べ下積み期間が非常に長いスポーツである事は否めない。こういった厳しい環境やプレーヤー自身のフィジカル的条件から「努力をしないでカッコよくなりたい」と言う最近の軟弱な若者の風潮ではピーク状態を保てず、今は一気に衰退し、下手をするとマリンスポーツの絶滅危惧種とすら言われかねない程になってしまっているのが現状だ。

 繰り返すが、道具を持っているだけで=やっている=カッコ良い!・・・といった他のスポーツのように手軽に優越感を感じられないマリンスポーツなので、あるレベルになれて「やってます、楽しんでいます!」と言い切れる迄には時間が掛かった。

 その割にはウインドサーフィンの専門雑誌はすぐに刊行され、一時期は結構な発行部数があったようだ。今日の主役・故滝口保氏はそういったウインドサーフィンを中心とする横乗り系のニュースポーツのジャンルの魅力あるビジュアルを雑誌メディアを中心に伝え続けた無くてはならない存在の人物だった。まだ50歳代という活躍絶好調の中の訃報にただただ驚くばかりだ。


Facebookにも投稿した故・滝口保氏に関する想い出。

実はこのウインドサーフィンのジャンルでは前野やすしという一部には名の知れたフォトグラファーが居た。筆者と同じ団塊世代・1949年生まれだった。1973年社会人になったとき、当時の平凡出版・雑誌アンアンの座談会に一緒に出た時以来の付き合いだったが、その彼も2010年急逝してしまった。これで自分が一緒に仕事をしたマリンスポーツ、スノースポーツジャンルのフォトグラファーが2名も居なくなってしまった訳だ。
故・前野やすし氏 ’90年彼から譲り受けたCANONの400mm望遠レンズは強烈だった。

 暫くは、滝口氏訃報のショックで悶々とするだけだったが、訃報を聞いた日、就寝後5時間、東の空が明るくなり始めの頃寝床の中で神の啓示を受けたのだ。これは冗談でもなんでもなく、UFOディレクターの矢追純一がらみの話でもない。内容はこうだ・・・「ウインドサーフィンの絶頂期をなんらかの形にして残したい!それが出来るのはお前達しかいないだろう?」

 追々話はするとして、筆者は多くの友と一緒に1980年頃からつい8年ほど前までウインドサーフィンを楽しみ、国内はもちろんの事、ハワイのオアフ島、マウイ島、カウアイ島、オレゴン州のコロンビアゴージ(峡谷の意)にあるフッドリバー、オーストラリアのシドニー等で散々乗りまくって楽しんできた。同時に永年広告代理店勤務という事もあり、仕事としてもプロダクトそのものやイベント企画運営、テレビ放映用の映像製作など散々関わってきた、いわばライフワーク的存在がこのウインドサーフィンだったのだ。
筆者が30年間ウインドサーフィンに狂った葉山森戸神社裏のレギュラーメンバー達。

 此処暫くは現役を引退し、遠ざかっていたが、この2名の著名な其れでいて決して遠くない存在のフォトグラファーの訃報を聴いて思ったのだろう、「ウインドサーフィンの絶頂期をなんらかの形にして残し、後に伝えたい!」歳を重ねた今だからこそ頭に浮かんだのだろう。

 それがどういう形のものになるかまだ自分でも判らない。しかし思い立って走り始めたら停まらない性格の筆者は、既に一緒にウインドサーフィンを楽しんできた3名の業界キーマンと昨日中にコンタクトを取り、この話をした。結局思い立って2日も経たないうちにプロジェクトがスタートし、早急に具体的方向性に向かって動き出す事になった。
昨年集まったウインド界の裏方レジェンド達。今回プロジェクトの中心的存在になる。

 エネルギーは満タンだ!データも画像も、資料も山ほど在る!公私に亘り、仕事と遊びの垣根を越えて撮り溜めた世界中のトップライダーのセイリング・ジャンプシーンの画像、イベントの製作物(ポスター、パンフレット、ユニフォーム、その他)・・・これが在るのに何もしないで良い訳が無かろう?
例えば1980年代のマウイ島でのウインドサーフィン大会の関係者Tシャツなど(一部)


 故・滝口保氏の訃報は大きなきっかけを与えてくれた。既に60歳を越え、ウインドサーフィン全盛期、強風の中、時には台風の時、会社を休んで遊びまくったおじさん達が、未だに眼を閉じると頭の中を吹き抜けるマウイの風や湘南の匂いをエネルギーにして一仕事やろうというこの勢いは彼の大きな遺志のような気もする。(※なんと自分に都合よく物事を解釈する奴だろう?筆者は)

 これが「団塊世代のウインドサーフィン狂い外伝」といったブログの続編になるのか、はたまた自費出版のフォトエッセイになるのかどうかはまだ判らないが、今後の展開が自分自身でワクワクするような真夏の一日だった。