2016年4月10日日曜日

団塊世代が考える観光活性化「八代市の場合・その5」

 ここ最近、真夜中午前零時直前に翌日アップ予定のブログを編集・制作し、日付が変わってシンデレラの馬車がカボチャの馬車になってしまう頃、ブロガーの投稿制作ページの「公開」を押すことにしていた。しかし一昨日は、書いているのがまだ金曜日だったため、掲載するのが土曜日であることをすっかり忘れ、ついうっかり「団塊シリーズ」をアップするのを忘れてしまった。

 今朝起きてEメールをチェックして「おい、どーなってんだ?」というメールを2本も頂いているのを見て、何?と思い、情けないことに初めて自分の勘違いに気が付いた。ごめんなさい。

 さて、今朝の人吉にお住いの先輩達からの恒例の朝メール情報で「週刊ひとよし」が「月刊くまがわ春秋」になって新創刊されるとの事を知った。出版社はすでにこの先の読者ターゲットとネット社会の中での雑誌の役割を想定し、ゆくゆくは季刊誌(年4回発行)への道を模索しているのかもしれない。誌名に「春秋」と付けたのはそれへのプロセスの様な気もする。

 もしそうであっても、決して間違っていないと思う。かって有名な季刊誌に「銀花」というのが在った。日本古来の文化・風俗・美術などを網羅し、昭和45年つまり1970年大阪万博の年に創刊され2010年2月に休刊となって居る。文化出版社から出ていた。休刊理由は「市場環境の変化及び情報ソースの多様化。」となって居る。ネット社会の発展と情報端末を持ち歩き、スマホで殆どの情報を得ようとする現代にそぐわなくなった事を早くに察知したのだろう。しかし、今でも神田の古本屋街に行くと沢山バックナンバーを売っていてその人気の程を知ることが出来る。



 今、元ウルグアイの大統領ホセ・ムヒカさんが訪日している。昨年の2月までウルグアイの大統領でエル・ぺぺの愛称で国民から慕われた方だ。「世界で一番貧しい大統領」と言われ尊敬されている。この人は大変な親日家・知日家で、あの黒船のペリーが浦賀に来た際に当時の日本の印象を書いた日記本を読み感動したという。そうしてその時の日本人の誇りと独自性=オリジナリティを何故今の日本人は無くしてしまったのだろうというコメントを聴いてちょっとショックを受けた。

 以前日本人の奇想天外なモノの見方・発想法は西洋人と異なり、非常に優れていて、実は西洋人は尊敬・驚愕したという。我々の血にまだその要素が少しでも残っているのであればもっとうまく活用すべきだろうと思う。この季刊・銀花という雑誌はそのあたりを毎回掲載していたような気がする。

 判りやすい例が此処にある。江戸時代の木製の時計が在る。時を告げるための道具だ。今の日本は西洋の時計と同時に動き生活している。しかし江戸時代の日本の社会は日本だけの独特の時の過ごし方をしていた。どういうことかというと、日の出と日没を基本に季節ごとに時間の長さを替えて時計を動かすよう工夫していたのだ。つまり日の出を夏も冬も明け六つとし、日没を暮れ六つにしたのだ。地球軸は約23度傾いているから中緯度の日本では夏の昼は長く夜は短い。冬がこれが逆さまになる。しかし、日の出と日の入りを必ず明け六つと暮れ六つにすることで夏と冬の夜を6等分、昼も6等分した。大体当時の一刻は今の2時間に当たる計算だ。これにより各季節毎に一刻は長さが一定ではなく異なるという事に成る。この江戸時代の時計は木製の歯車で「刻」が判る仕組みなのだが、秋分の日と春分の日で歯車のカムを入れ替え、冬時間用の歯車と夏時間用の歯車を使い分け「一刻」の長さを調整したという。之を知った西洋の時計技師達が日本人の発想の独自性に驚愕したそうだ。

http://www.osakaapple.net/osaka/osaka12.html

 従って「昼が長くなった、夜が短くなった」というのはこの一刻の長さが短いか長いかという事を現しているのだ。現在太陽の沈む時間が遅くなったことを「陽が長くなった・・・」というのとはちょっと意味が違うのだ。

http://www.viva-edo.com/toki.html

 世界中で太陽の出入りを生活の基本である時計(刻)の物差しにして社会を動かしている国は他にはなかったという。更に江戸時代は仕事はほぼ午前中だけで終了、午後は銭湯に行ったり落語を聴いたりしたという。文化が発展する時間が世界で最も沢山あった国だという。

 決して筆者はその時代に戻れ!と言っているのではない。自分自身が忘れずそういう江戸時代の日本人の様な個性的でユニークな発想、行動を少しでも取れればいいなと思うのみだ。

という事で、今日の八代市に関する熊日新聞のタイアップ記事。

熊日新聞に掲載したタイアップ記事の第5弾


第5日目のタイアップ記事。

 この日の内容にある北海道・北竜町は我が母の祖父吉植庄一郎(衆議院議員・北海道開拓者・ジャーナリスト・北海タイムス新聞創始者)で、非常に縁の深い所だ。

 北海道の野幌の森林公園に野鳥観察撮影に行った折、公園の真ん中に開拓史料館が在り我が曾祖父の肖像が在ったので驚いたことが有った。その曽祖父が開拓した北竜町が一面のひまわり畑で一躍有名になり、その後日本のあちこちにこれを真似したひまわり畑が観光資源として出来始めたのも何かのご縁だろうと思う。もちろん我が曾祖父はそんな事は一つも知らない。

北竜町のHPより

 この日の話で一番言いたかったのは、「観光活性化」の基本だろうと、地元行政の観光促進担当者、観光事業者が「観光客が喜ぶだろう、高い評価をしてくれるだろう、口コミで良さを広めてくれるだろう・・・・。」と思って進める促進策が、実は大きく的を外している事を言いたかったのだ。

 色々な種類の温泉が湧き出ている、豪華な夕食のお皿の数では他に負けない、これでもか、これでもか、こんなに至れり尽くせりでおもてなしのネタを揃えたのにお客が何故来ない?何がイケないんだ?・・・・これが正直な気持ちだろう。しかし、もう少し来る側の立場でものを考えねばならないと思うのだ。何故高いお金を払って観光客は目的地やルートを決めるのか?

 八代港に年間70隻もの大型客船が来るらしい。しかしこれで来る中国人は「買い出し客」だ、しかも八代市には泊まらず船に泊まる。逆に「八代市は中国人であふれているだろうから避けよう」とならない事を祈るばかりだ。しかし一過性のモノだから、地に足の着いた観光活性化が今後も重要だろうと思う。