2016年8月14日日曜日

「団塊世代のウインドサーフィン狂い外伝 #16」 この夏ウインドサーフィン界創成期のレジェンドに再会した。 I met Windsurefing in a spring of 1980.

 ウインドサーフィンの歴史はウインドサーフィン・ジャパンという製造メーカーの鈴木東英氏と、ウインドサーフィン協会という団体の小林嘉禄会長によってスタートしたという事であったが、この夏、実はスタート時期の本当の状況が判って来た。

 以前投稿したこのブログでのウインドサーフィン創成期の話は以下から
  http://yamasemiweb.blogspot.jp/2015/10/blog-post_11.html

 …と言うのも、この7月今は宮崎県延岡市にお住いのウインドサーフィン界のレジェンド伊勢努氏に実に33年振りにお逢いできたのだ。
伊勢さんはほぼ毎日ジョギング・ウォーキングをしておられ、奥様の紅子さん共々元気にお過ごしだ。

 いつもヤマセミの観察撮影で通っている熊本県の人吉市から車で2時間半、
ヤマを越えた隣の県だから近いと思ったら、延岡市はとんでもなく遠かった。

 名勝地高千穂峡から流れ出る五ヶ瀬川の河口部傍にお住いの伊勢さんは創成期のウインドサーフィン界に在って、当時から業界の事実上のリーダーであり、特に教育・普及面で大きな業績を上げた方だ。ある意味日本の団塊世代のウインドサーファーはほぼ全員彼の教則本でウインドサーフィンを覚えたと言っても過言ではない。

 筆者が伊勢さんに最初にお逢いしたのは、1980年春、日立マリブ(常陸大宮)でのウインドサーフィン全日本選手権大会の会場だった。当時38歳だったはずの伊勢さんは海で白く焼けた髪で既に60歳くらいの風貌だったにも拘らず肌がつやつやとして異様な風体だったのをはっきりと記憶している。
 すでに伊勢さんはウインド界で有名人だったので6歳下の筆者は恐る恐る近づいたものだった。

 事前にネットを通じてコンタクトしていたため、伺った際に日本のウインド界創成期の色々な資料をまとめておいてくださった。この「団塊世代ブログ」で事の詳細はいちいちアップして居られないが、別プロジェクトでウインド界で活躍した色々なメンバーの協力を得ながら、日本におけるウインドサーフィンの歴史写真集などを自費出版してみたいと思っている。

とにかく、筆者が1980年にウインドサーフィンというものに出遭った際、既に世界ではホイルシュワイツァー氏がジム・ドレイク氏と共同開発した全く新しいマリンスポーツギアを必死に普及させようとしていた時期に当たっていた事は間違いない。ある意味人生における神の啓示とでも言おうか、この先30年以上どっぷりと首まで浸かってしまうマリンスポーツとなった訳だ。

 
 1983年JAPAN CUP開催地伊豆新島の前浜でホイル・シュワイツァー夫妻。この後、マウイ島のシュワイツァー家で幾度も雑誌の取材、ウインドサーフィンジャパン社のカタログ製作などで、散々お世話に成る事となる。

 ウインドと出遭って1年で早くもウインドサーフィンジャパンのカレンダーの写真に自分が乗っているカットを使われた。沖縄海中公園で海中展望台の橋をくぐる潮の流れの非常に速い所で橋の上から撮影。左の赤いセイルが筆者、右はウインドサーフィン協会の北郷敏明氏。覚えたて初心者の筆者と全日本チャンピオンにもなった北郷氏との違いがボードに立つ位置で一発でバレてしまう写真。ハーネスなどはまだ使えない初期の頃。撮影は故・前野やすし氏。
伊勢さんがメインで発行していた初期のウインドサーフィン協会ニュース。

記念すべき日本におけるウインドサーフィン界の最初のニュース第1号表1

同じく表2面、ウインドサーフィンとはどんなものか書かれている。

 このWSF協会ニュースはこの後数年分を伊勢さんに託されたので手元に在るが、非常に貴重な資料だ。いちいちスキャンしてこのブログで公開することは無いが、いずれデジタルデータで残そうと考えている。

 少なくとも、1979年にトリンプから銀座一丁目の中央宣興という広告代理店に入り、全く新しいコンセプトのマリンスポーツに出遭った、その初期の話をご紹介したところだ。この先も広告代理店の自分の仕事と絡まって今後もウインドサーフィンの話が何度もこのブログに出て来る事に成る。お楽しみに!