2017年3月18日土曜日

団塊番外編「団塊世代を揶揄する投稿・記事が多いのは何故か?」 Many articles by the mockery of the baby-boomer generation why?

 最近はさほどでもないが、一時期団塊世代を揶揄する記事があちこちに載ったのを記憶されている方も多いだろう。
 堺屋太一さんの「団塊の世代」に書かれていた話の続編ともいうべき、団塊世代が60歳還暦に成った時の話、65歳に成って全員リタイヤした時の世の中の混乱話、5年ごとに2007年問題だの、2012年問題だの大げさにメディアが騒ぐ都度、一端の評論家気取りのライター、投稿者がああでもない、こうでもない、このような脅威が来るぞ!などと騒ぎ立てたものだ。

 結局、泰山鳴動ネズミ一匹に近い結果であったことは皆さんご存知の通りだ。これらの記事を書いたり投稿した者は、たいがい大手広告代理店の「自称・意識高い系」だったり、人からの聞きかじり情報を自分で想像・推測を加えてまとめて記述する「ネタ作り屋」によるところが殆どだから、一見賢そうなことを話して目立とうとする者の、実は根も葉もない話に近いと思って良い。

 自分では何も実務が出来ないのに、左の噂、右の情報をまとめてさもオリジナリティがあるかのように合成して造り出す技術が、広告代理店の「事情通」と言われる人たちの常とう手段だ。2020東京オリンピックのエンブレム騒動を視れば似た様な事が有った。AとBを合成してCを造りだせばそれはオリジナルなのだ・・・という勝手な論理でモノを進める。世の中の事象に対する評論も批評も全く同じだ。当事者意識などみじんも感じられない。ネット上でマーケティング論を投稿している者たちも、多かれ少なかれ単に横文字を多用した野次馬と思っている。

 ちょうど今から10年前2007年、NHK総合テレビの「日本のこれから」第11回放送(2月10日団塊・大量退職へ」と言う視聴者参加型スタジオ形式の生番組が在り、これに要請されて出演した。テーマは団塊世代の大量退職で世の中はどうなるか?というものだった。スタジオの席を団塊世代のグループと非団塊世代のグループに分けて討論を目論んだものだった。
民放のキッチンスタジアムさながらの討論スタジアムだった。
 
 ゲストは丹羽宇一郎、奥谷禮子、堺屋太一、崔洋一、谷村新司、金子勝宮台真司といった面々で、団塊世代の名付け親堺屋太一さんを始め、団塊世代・非団塊世代の著名人が並んだ。
NHKの生放送に出演した際堺屋太一さんにサインを頂いた貴重本。

 この番組が始まって直ぐ、金子勝と言う慶大の二流タレント教授が「団塊世代は子育てに失敗して、酷いものだ・・・」と発言し、団塊世代側からモノを投げられるほどの抗議を受け、更には生番組が定時ニュースで中断・休憩の15分間にも、団塊世代側の一団からつるし上げを食っていた。「あれはテレビを盛り上げる意味で・・・」まで言ってしまい、更に「大学教授がいい加減な事を・・・ふざけるな!」と小突き回されていた。
 
 まあ、大学教授と言うよりは、昔も今も質の悪いワイドショウの常連コメンテーター・タレントだからしょうがないのだろうが、自分が決めつける事に何の根拠も数値データも示さず、「団塊世代は子育てに失敗した・・・。」等と平気で生番組で発言する。世の中にそんなデータが在ってたまるものか。子育ての失敗と成功の定義すら存在しないのに、よく言えたものだと思う。こんな教授の話を聞かされる、慶応大学の学生達が不憫でならない。
靖国問題の回は視聴率が高かっただろうと思う。

 出席した際、筆者はこう言ってやった。「自分の意志でもなく、戦後のたった3年間に生まれた団塊世代と、そうではない残りの時期に生まれた数倍の世代の者たちを闘わせてどうする?番組のプロデューサーは一体どういう答えをこのアンバランスな世代同士の討論に期待しているのだ?番組の意図自体おかしくはないか?」これには拍手が鳴りやまなかった…もちろん団塊世代側が殆どだったが。


 要は何が言いたいかと言えば、団塊世代に対するこういった偏見、悪口、揶揄する者たちの本質は「団塊世代に対するやっかみ・妬み」以外の何ものでもないという事だ。自分たちだってもっと「何とか世代」と言われてメディアに載ったり、話題にして欲しいのだ、悔しいのだろう。

 だからこそ大手広告代理店の訳知りのような肩書をベースに「団塊世代は何故嫌われるか?」等と、何の根拠もないのに団塊世代が嫌われている・・・と決めつけるような書き方をする。そんなデータ何処に在るのだろう?逆にそうする事でしか自分の立ち位置をアピール出来ないのだろう。自分が妬んでいる事を隠して第三者面をして、世の中の不特定多数が嫌っている・・・という他人のせいにするしかないのだ、ちょっと可哀想な気もする。大手広告代理店が情報発信する世相や流行りものがウソの塊である事くらい、もう誰もが知っている。
 むしろ、「団塊世代に隠れた我々は何故目立たないのだろう?」くらいの文章を書いた方が共感を得られるような気がするのだが・・・。

 しかし、そう云う似非・批評家が目の敵にする団塊の世代には今までのこの世の中を動かしてきた個性の強い人間が目白押しだ。ビートたけし(北野武)に始まって、武田鉄矢、西田敏行、久米宏、村上春樹、中村雅俊、星野仙一、弘兼憲史、小林稔侍、吉田拓郎、テリー伊藤、沢田研二、三宅裕司、志村けん、高田純次、小田和正、森進一、布施明、森山良子、赤川次郎、五木ひろし、泉谷しげる、由紀さおり、舛添要一、南こうせつ、大竹まこと、矢沢永吉、森田健作、鳩山由紀夫、鳩山邦夫、菅直人など、好き嫌いは別にしても、そうそうたるメンバーが名を連ねている。

 団塊直後の世代には、多少著名人も居るが残念ながら団塊世代を超えた個性というものがなかなか見当たらない。先に出た慶大の金子勝が言っていた、我々団塊直後の世代はいつも団塊世代がひっかきまわし、楽しんだパーティの後の終わった会場に乗り遅れた集団の様な気がする・・・・という気持ちが少し判る様な気がする。しかし、それは団塊世代の責任ではないだろう?


 自分たちでパーティを開けばいいだけだ、それをしないで乗り遅れただの仲間に入れて欲しいなど考えが甘いのだ。自分で実務を実行しないで目立つところだけさっとすくって知識を得、文句ばかり声高に叫ぶ。一部をかじっただけで、さも全部を知っているような態度で人と接する、自分を売り込む。団塊世代にも居ない訳では無かったが、最終的にはすぐに化けの皮が剥がれるから長くは生き残れまい。

聴くだけではなく演奏する側に回ればいいのだ、客席から文句を言うだけなら誰でも出来る事。団塊世代には自分達で実践する力が有るのだ。
 確かに団塊世代の人間はパワーがあるし、いつまでも気が若く強引な面も在ろう。しかしそれは数が多い中で生き残るために、必要に迫られて自然と身に付いた資質なのだ。悪い方より、良い方にその資質が出ていると思うのだが如何だろう?