2018年2月28日水曜日

団塊世代のヤマセミ狂い外伝・番外編「昭和も遠くなりにけり」 Baby boomer's special issue 「The age of Showa is getting far away as well!」

 その昔「明治は遠くなりにけり」という言葉が流行った事がある。今からちょうど半世紀50年ほど前1968年頃だったろうか?明治、大正が過ぎ、昭和の時代となり、明治100年にあたるころにメディアで使われたようだ。元々は「降る雪や明治は遠くなりにけり」という中村草田男の句からきたものらしい。昭和11年発表の第一句集「長子(ちょうし)」に収められているのだとか。

 その句を真似たのだが、まさに昨今「昭和も遠くなりにけり」を感じない訳にはいかない。いきなり何でそんなセンチメンタルな話に成るかというと、昔の色々な資料を整理していて昭和40年の東京観光はとバスの案内書が出て来たからだ。
 決して流行りの終活の成果ではないのだ。「団塊世代も終活開始」という流行りに乗ってそろそろやらねば…と思う気持ちがまったく無いわけではない。団塊世代の友人がどんどん進めるのを横目で見ながら、競うように始めるのもなんだか昔の競争に戻ったようで「古希近いっちゅーに、まだ競うのかよ?」という微妙な気持ちが芽生えているようだ。

 そんな状態で、1960年代のお宝段ボール箱の底から出てきたのが、はとバスのご案内書だった。
 今日は「団塊世代のヤマセミ狂い外伝・番外編」で昭和40年頃の東京が如何に今と異なっているか、この資料を基にご紹介したい。 

今のはとバスは殆どダブルデッカー(2階建バス)に近いのでこのガイドさんの位置から東京の街並みを観る事になる。後ろの国立競技場は奇しくも現在建て替え中だ。

東京タワーの何と高く見える事か!この時点で建って既に7年は過ぎているのだが・・・。このタワーが高層ビルに埋もれて、新大阪に向かう東海道新幹線車内からは現在殆ど見えない。

お台場エリアが影も形もなく、存在していない!

羽田空港。未だプロペラ機の方が多い時代。しかし陸上競技場のトラックの様な滑走路。石原裕次郎の映画などで出てくる頃の羽田だ。

後の東亜国内空港⇒日本エアシステム、の前身日本国内航空。団塊世代は未だ飛行機に乗る事も無かったので記憶には無い航空会社だ。

驚くことに、築地のマグロのセリが青空の下で行われている。晴海のはと(波止)と現在ではすでにあまり使われなくなった言葉が生きている頃だ・・・と思ったらなんとはとバス社経営のレストランの名前だった。銀座から晴海・有明方面への一本道路に掛かっている橋が勝鬨橋(かちどきばし)だ。当時は大きな船が通る際、実際に開閉していたのだ。
銀座の夜景は地方から上京した者たちの憧れの場所だった。集団就職で上野駅などに上京した団塊世代前後の年代、金の卵達はこの景色を見て初めて自分も「東京人」の仲間入りをしたのだと思ったという。集団就職列車は思いのほか遅くまで実施されていて1954年から1975年まで走っている。

銀座といえば森永の回転ネオンサインや4丁目角のガラス張りの三愛ビルがランドマークだったような思い出がある。その後昭和41年に出来た数寄屋橋ソニービルも今や1年前3月31日に閉じた。

昨日、黄昏の銀座をコンデジで撮影した。上の資料を観た後だけに50年前の銀座に比べ今の銀座は何だか景色そのものがデジタル化してしまったような気になった。50年後の東京はどう変わっているだろう?空中を車?が飛び交っているのだろうか?