2018年3月14日水曜日

緊急レポート!エレキの神様ベンチャーズのノーキー・エドワーズが亡くなった! Nokie Edwards of The Ventures passed away 12th of march in Yuma, Arizona.

 団塊世代にとって悲しいニュースが舞い込んできた。あのベンチャーズのリードギター、ノーキー・エドワーズが逝ってしまったという。82歳だったとの事。エレキの神様と言われた彼に出会って50年以上が経った。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180313-00000798-bark-musi
 本名はNoel Floyd "Nokie" Edwards と言ってチェロキー族の血統を引いた由緒ある一族だという。筆者が高校に入った際、既にWalk Don't Run(=急がば回れ)で有名だったベンチャーズは、まさにその年に始まったエレキブームに乗って、Beatlesと人気を二分する存在だった。

 誰よりも早くエレキブームの熱病にかかっていた筆者は、1965年の渋谷公会堂のコンサートに並んで入り、前から3列目でかぶりつきで聴いた。エレキブーム最高潮の頃、前から5列目まではエレキギターを抱えた観客が殆どだったという、今考えると信じられない状況だった。

 勿論、筆者も安いながらモズライト・ベンチャーズモデルとまではいかないがエレキを抱えて席に着いた。そうしたら、各演奏曲の一番難しい所にかかると、リードギターのノーキー・エドワーズがステージの最前のヘリまで来て、弾きながら指の動きを客席の前列の我々に見せてくれるのだった。客席の我々は一生懸命その場で真似るのだ。これ以上のファンサービスがあるだろうか?

 残念ながら、いくらノーキーが見せてくれても、とてもその通りには弾けっこなかったが、妙にステージと客席が一体になった連帯感を感じて熱い演奏会だった。より大きな新宿厚生会館へ会場が移った後はそう言う事は無かった・・・、というよりあそこはエレキを抱えて入場させてくれなかった。

 それからちょうど30年後1995年5月11日、英国のThe Kinksのライブをこの渋谷公会堂へ聴きに行ったのだが、渋谷公会堂のあまりの小ささに絶句した覚えがある。高校生時代の記憶と45歳になった時の感覚の違いに驚いた。しかしKinksも周りの観客は全て団塊世代だったように思う。こいつらと一緒に大きくなったのだと、これまた妙な連帯感を感じたのだった。

 それから1年ほどして、赤坂のキャピタル東急ホテルに行った時、正面玄関を入ろうとした際、つばの広い帽子をかぶった大きな男に行く手を遮られてしまった。大きな外人だし派手な格好なのでしょうがないから道を譲って顔を見たら何と!ノーキー・エドワーズだった!
 思わず、「ミスター、ノーキーさん!」と言ってしまった。5分ほど立ち話が出来た。

 そのまた1年後、今度は仕事で長野オリンピック白馬会場での男子アルペンスキー滑降(プレ大会でワールドカップ白馬)の仕事を担当する事になり、テーマソングを作ろうという事になった。なりふり構わず声を張り上げて「ベンチャーズに作ってもらいましょう!」と提案した。白馬村も、冠スポンサーも皆、団塊世代が実施の決定権を持っていたので、思いのほかスムーズに事は運び、いつの間にか本当にベンチャーズと一緒に仕事をする事になってしまった。何と強運?
 これがベンチャーズと一緒に仕事をした証。この頃のリードギターはノーキー・エドワーズではなく、ジェリー・マギーだった。ボブ・ボーグルも、ドラムのメル・テーラーもまだ元気だった。札幌のホテルで偶然ボブ・ボーグルと再会した際、ベンチャーズのロゴ入りピックをくれた。

 実は1990年石垣島の海開き「石垣島マンタピア」というイベントがあり、これにもウインドサーフィン関係で少々関わっていたのだが、そのイベントのメインゲストがベンチャーズだった。石垣島の市役所横の広場が会場だったが、ほぼ全島民が集まったのではないだろうか?観光課の課長さんの挨拶で始まったのだが「皆さん!石垣市始まって以来、戦後初の外人タレントさんです!」という紹介にひっくり返りそうに成ったのを覚えている。

 その時は、たまたま宿泊していたホテルがベンチャーズと同じで、翌朝の朝食を一緒に食べたのを今でも忘れられない。勿論片言の英語なのだが、1965年の渋谷公会堂公演の話や、彼らのLPレコードはほぼ全部持っているので、話が合わない訳が無かった。

 話は何処までだっけ?

 要は何を言いたいのかというと、ベンチャーズとは切っても切れないご縁で殆どの団塊世代は育ったのだ。筆者などは仕事にまでこのベンチャーズを持ち込んでしまう程の入れ込みようだったから、ノーキーエドワーズの死は実際、相当ショックなのだ。「生は偶然、死は必然!」自然の摂理は充分判っているが、団塊世代に強い影響を与えてくれた人々が次々この世を去っていくのは辛いものだ。

 という事で、往年のベンチャーズを想い出しつつ、まずは合掌。
日本の最初のシングル盤・東芝音楽工業

初期のドルトン・レーベル時代のベンチャーズ米国版LP。

上記の次に出た同じくオリジナル・ドルトンレーベル盤。

我が家のベンチャーズ・コレクションの一部、半分以上米国盤オリジナル。1986年頃当時の東芝音楽工業がベンチャーズのレコードを再び出すのでオリジナルのジャケットを貸して欲しいと言ってきたので7枚ほど貸し出した事があった。輸入盤レコード屋の「すみや」渋谷店映画サウンドトラック盤専門店・店長池田氏の仲介だった。今どうしているだろう?

50歳を越えて色んなバンドのメンバーとベンチャーズの曲をやったが・・。

55歳くらいの頃、高校時代のメンバーともベンチャーズ・コピーバンドを組んで一時期スタジオで練習した。自宅では深夜遅くまでヘッドフォンで聴きながら一生懸命練習した。一回はヘッドフォンのジャックが外れて、真夜中二時頃、近所中にモズライトのテケテケテケテケ♪が流れて大ヒンシュクを買ってしまった。

バンド名は「The Rogands」勿論全員老眼だからだ。しかしやっと念願の本物のモズライト・ベンチャーズモデルを手にしてご満悦の頃。