2018年4月17日火曜日

団塊世代は良い写真って何?という疑問を持っている。 Baby-boomers think about what kind of photograph is good ?

 この項最終回は、団塊世代が考える「良い写真」って何だ?

絵を描くにしろ、写真撮影をするにしろ「上手い、下手」は当事者のセンスや努力について回る因果応報だろう。努力すれば報われるだろうし、神経を研ぎ澄ましてセンスを磨かねば良い結果は得られないだろう。
 しかし、この「上手い、下手」はなんとなく己の技量・腕と比較すれば判るものの、「良い、悪い」と言われてしまうとなかなか納得できる批評を聞いた事が無い。一体何をもって、何を基準に「良い写真、良くない写真」を区別されているのだろう?

 ここからは筆者の独断と偏見で述べて行くので、「んな訳ないだろー?お前オカシイんじゃないの?」と思われた方は、別の心地良いサイトへ移られるようお勧めする。

 「団塊世代のヤマセミ狂い外伝」の大学在学中のエピソードにも書いた事があるが、筆者は写真撮影の際、写す対象に関して光や色より圧倒的にシャッターチャンスを最優先する。その理由が「写真には絵画に出来ない一瞬の素晴らしさを記録・表現できるから・・・。」という理由がある。

 このブログでもシャッターチャンスを重要視する記述が多いので、なぜだろうと思われたと思う。
 これは大学時代の絵画・油絵の単位を危うく取り損ねそうになった或る事件が発端なのだ。

 大学の教育学部美術専攻科に在籍中、油絵の教授から「シンジョー君は人物を描かないが何故かね?きちんと人物を描かなければ単位は上げられないよ!描かないまっとうな理由でもあるのなら話は別だがね・・・。」と言われてしまったのだ。

 3日間の猶予の後、全学年の美術科学生のいる前でその理由を述べる一種の裁判の様な集会が開かれてしまった。そこでこう述べた。「人間を描けない理由を説明します、人間が美しい・魅力有ると思える時はどんな時か・・・大口を開けて笑っている時、感動のあまり泣いている時、怒髪天を突くような怒りの時、つまり感情をあらわにしている時だと思う・・・・しかし歴代の名画にそんな絵が有るか?せいぜい笑っているか否か問題になるようなモナリザが精いっぱいではないか?


 何故、歴代の名画に無いか?それはそういう瞬間をモデルに求めることは不可能だし、一瞬の筋肉の動きや目の表情のナセル事だから水彩画や油絵で描く事自体が難しいのだと思う、したがって僕はそういう人物を描写するには「写真」という方法が一番適していると思う。昔は写真と云う技術が無かったので必要上肖像画や似顔絵という技術が発達したが今は中世ではない。写真も美術の一種だと思う、それが一番生かされるのが人物描写ではないかと思う。だから僕は描かない・・・。22歳にしては生意気だったとは思うが、今でもこの考えに変わりはない。


 その後69歳に至る今までいろいろ考え、学んだ結果を加味すると、そもそも写真というモノの無かった時代の絵画は「芸術性」より「実用性」の用途の方がはるかに高かった。今でこそ芸術と言えば、絵画・デザイン・彫塑・建築・音楽・踊りなどに「写真」が加わっているが、写真が無かった時代には絵画が写真の代わりを果たしていた。

 つまり、ポートレートの代わりに肖像画、銅像のようなもの、文字を読めない一般大衆の為に宗教を説くための宗教画(教会の壁画や天井フレスコ画など)。観光地を宣伝するための風景画(都市・港など)現在写真で伝達されている色々な情報を「絵画」という手段、TOOLで伝えざるを得なかったのだ。

 色っぽい所では、江戸末期の浮世絵の男女画がポルノ写真に替わるなど目的に応じて絵画も写真もツールの一つであるのは今も昔も間違いない。
 例えばこの5月6日まで恵比寿ガーデンの東京写真美術館で開催されている写真展「写真発祥地の原風景 長崎」でも稲佐山から観た長崎湾の風景写真やグラバー邸などの似た様な写真が豊富に展示されているが、これを見ても風景や佇まいを記録し情報として人に伝える意味の「絵画」から「写真」への過渡期を知る事が出来る。

 この様に描かれた絵画が「写真」の発明、発達で徐々に実用ツール⇒芸術領域へとその目的・存在意義が変わらざるを得なかったのだろうと勝手に考えている。だからこそ具象画(印象派あたりが最終期だろうか?)が、点描による表現の絵や崩したような具象画、あるいは抽象画へ変化し、写真のような絵画がどんどん減っていったのだろうと思う。

 写真がまだ発明・普及していなかった時代に、ポール(パウル)・クレーやカンジンスキーの絵が果たして評価・理解されただろうか?
 
 これらの事から総合的に考えてみれば、「良い写真」というか、筆者の思う好きな写真は「絵画」では表現できない「被写体」を撮る事こそ写真の真髄に近いのではないだろうかと思うのだ。

 この考えで写真撮影に接してきて一番衝撃を受け、好きなのが国際写真家グループMAGNUMに属しているフィリップ・ハルマン(ラトビア生まれ1906-1979)が女優・男優・科学者など著名人を愉快にジャンプさせて撮影した一連のジャンプシリーズだ!
MAGNUMに掲載されているフィリップ・ハルマン氏

色々なジャンプ写真を収録した写真集。

有名な女優さんが皆歓喜の表情でジャンプしている。これは決して絵画では表現できまい?

 考えてみればわかるだろう、マリリン・モンローがジャンプしている瞬間をその楽しそうな表情含めて絵に描けるか?マリリンではなくて普通のモデルさんだって「飛んで?」と頼んでも10回飛べるだろうか?

 作家はモデルが飛んでいる瞬間を自分の脳裏に焼き付けて置いてスケッチを描き、習作を幾つも経て最終作品に至るのだろうが、写真であれば数回シャッターを押せば済む話だ。

 つまり、写真でしか表現できない「その一瞬!」を撮るのが写真として素晴らしい作品(=良い写真)になるのではないだろうか?しかしこれは数千分の一秒に限った事ではない。定点観測で4人兄弟が0歳から50歳に至るまで毎年1回揃って撮影した生い立ち記録写真がアメリカにある。これなども絵画で行えばとんでもなく大変だろう。

 佐藤秀明さんのあの9.11で崩壊したNYワールドトレードセンターが1960年代後半、建って行く過程を撮り続けた画像などは絵画では絶対に出来ないだろう。

佐藤さんの撮った画像はそのまま歴史の一瞬を記録した貴重なものなのだ。